竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー』(新潮選書)を読む。副題が「’自殺’したのは誰なのか」。
帯の推薦文より、
これはすごい。画期的という単語が陳腐に思えるほど、画期的。(恩田陸)
興奮した。グラス家の物語に目を凝らせ! 耳を澄ませ! (若島正)
余人の追随を許さない探求ぶり。ぞっとするような快感を覚えた。(阿部公彦)
3人とも絶賛だ。でも私には3人が後ろ手に持っているすりこぎが見える。
サリンジャーの『九つの物語(ナイン・ストーリーズ)』の冒頭を飾るのが「バナナフィッシュにうってつけの日」という短篇。この短篇の最後でシーモアは妻の寝ているホテルの部屋で突然自分の頭を拳銃で撃ち抜いてしまう。この自殺について本書では、シーモアを撃ったのは弟のバディーではないかとびっくりするような主張を繰り広げる。だがバディーにはアリバイがある。
「ゾーイ」で、バディーはシーモアの遺体をフロリダまで引き取りに行ったとき、飛行機の中で5時間まるまる泣いていた、と語っている。それなのに竹内らはなぜこのような荒唐無稽な主張を繰り広げるのか。竹内らは鈴木大拙の紹介する禅の公案や、ヘリゲルの弓の師阿波研造の弓術、ビリヤードのポケット・ゲームや「テディ―」のラストなどを援用して、執拗にシーモアの自殺に疑問を投げかける。
読んでいて、小さなトゲをプスプス刺され続けているような印象を受ける。だがそれは小さなトゲであって、致命傷にははるかに及ばない。第4章「ホールデン」で『ライ麦畑でつかまえて』が取り上げられる。こちらの分析はなかなか説得力のあるものだった。しかし、もうそんな分析はいいやという気になっていた。「バナナフィッシュ」も『ライ麦畑』もそのような分析を必要としないで十分面白いのではなかったか。
でも、これを機に『ナイン・ストーリーズ』を読み直してみよう。