身内の語る西郷孤月のこと

 西郷孤月は橋本雅邦の弟子、大観、春草、観山とともに四天王と呼ばれた。私の岳父の妻は西郷孤月と親戚で、その生家は西郷と言った。松本市の城山に西郷家の墓があり、そこは松本の武士の墓地だったという。西郷家を中心に松本市に西郷孤月を研究し顕彰する「西郷会」がある。その西郷会に関係して、岳父が孫に孤月について書いた手紙を紹介する。

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嘉代子(妻)が病気になる前、御先祖様から「セッツカレタ」のか、西郷家のことに夢中になり、私をコキ使って松本の古い地図を写させたり、古文書を読ませたり……尤も私もそういう仕事は嫌いではなかったので楽しんでやりました。そんなときと孤月会が一緒だったので、嘉代子も喜んで勇んで参加、だからこの本(『孤月研究ノート』孤月会発行、2013年)のアチコチに彼女の入った写真が載っています。

 孤月さんは明治6年に生れ、明治45年(大正元年)に死んでいます。嘉代子のおバーちゃんが(この人は孤月と同年代)「放浪の画家がいたがどうしておるかのう」とよく言っていたと。孤月が死んで20数年たっていた筈。でも消息がわからなかったのですネ。西郷家の一族は彼をヤッカイ者と思っていたのかも。

 何せ当時画壇の大御所橋本雅邦の娘を貰い、狩野派の後継者とも目されていたのに、結婚1年足らずで離婚してしまう。「恩師とその娘を裏切った」というので極めて評判が悪かったらしい。西郷一族は肩身の狭い思いをしたのだと思う。で、孤月は帰松(松本へ帰ったこと)した時でもどの西郷家へも泊っていない。友人・知人・後援者の処へ身を寄せたようだ。浅間(温泉)の風呂屋とか、つくり酒屋とかへ泊めて貰った様で、そう云う処には作品も残っているが、松本の西郷家では持っている家はありません。大坂の母方の親るいはよくしてくれた様ですが。矢張り母チャンは偉大です。

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 以上曽根原正次から孫への手紙。写真を見ると隔世遺伝らしく、正次さんの息子(孫の叔父)は孤月に似ているように思う。