矢代幸雄『藝術のパトロン』を読む

 矢代幸雄『藝術のパトロン』(中公文庫)を読む。国立西洋美術館設立の基となった松方幸次郎コレクション、三渓園の原三渓大原美術館を作った大原孫三郎と総一郎親子、福島コレクションの福島繁太郎の4組の大コレクターを取り上げている。

 松方幸次郎は川崎造船所のオーナーで、第1次世界大戦の好景気のために自由に使える金が3千万円できた、それでヨーロッパの油画を買って日本のために立派なコレクションを作りたいと言った。松方の3千万円というのはどれくらいの価値か。当時矢代はパリで1カ月200円少しくらいで生活できた。横浜からロンドンまで40日もかかって1等の船賃全部を含んで800円くらいだった。その大金で油画を買い集めたのだった。

 しかし戦後フランス政府は松方のコレクションを敵国の財産として没収する。それを地道な交渉によって日本に寄付させることができた。その条件にそれらを収蔵する美術館を作ることとなって国立西洋美術館ができたのだった。

 三渓園の原三渓は跡見女学校の歴史の先生だった。横浜の豪商原家の令嬢が跡見女学校に入学して先生を見初め、原家の養子となって三渓園の当主となり、生糸の輸出で成功していた資産を使って膨大な美術コレクションを作った。主に日本の古美術を収集したが、奈良の三重塔など古建築をも収集し三渓園に移築することになる。三渓園が広いのでそれが可能だった。

 しかし、第2次世界大戦の横浜空襲で三渓園の建物は大きな被害を受けてしまった。

 大原美術館は大原孫三郎が設立した。大原孫三郎は父の倉敷紡績を継いで倉敷レーヨンを創め中国銀行も経営していた。若くして社会厚生事業に目覚め、社会厚生施設や大原社会問題研究所、農学研究所などを作った。大原に影響を与えて社会厚生事業を始めさせたのが石井十次で、その石井がほれ込んだのが児島虎次郎という画家だった。石井は児島を大原に託し、児島はヨーロッパに3度も留学させてもらっている。美術館はこの児島の希望によってできたという。

 大原孫三郎が戦中に亡くなったのち、後を継いだ大原総一郎が優れた西洋美術を収集して現在の大原美術館ができあがっている。さらに倉敷民芸館と倉敷考古館を作り、運河沿いに3つの建物が並んでいる。

 福島コレクションについては20ページほどが割かれていて、あまり詳しくは書かれていない。現在銀座5丁目にあるフォルム画廊は福島繁太郎が創立したものだ。

 日本のパトロンたちの歴史が分かってとても勉強になった。ただ、偉大なパトロンたちの業績をたたえているが、批判的な視点がない。三渓園の戦後、生糸の相場が暴落してその結果コレクションが散逸したのか、そういった視点も知りたかった。