東京都美術館で東京展を見る


 東京都美術館で東京展を見て、その実行委員会が主催する笹木繁男講演会「中村正義とわたし」を聴く。今回顕彰故展として中村正義の作品が100点ほど展示されていた。中村正義は東京展の生みの親なのだ。それで生前の中村と親交があり、『ドキュメント 時代と刺し違えた画家 中村正義』の著者である笹木が登壇した。
 中村正義は22歳で第2回日展に〈斜陽〉を出品し初入選する。26歳で日展特選、28歳で再度特選となり、36歳で審査員となる。しかし審査をめぐる中村岳陵の政治的やり方に反発し、日展から日本芸術院会員へという自明の序列に対して反旗を翻し、日展を退会して反日展を画策する。はじめ人人展を作り、ついで日展の会期にぶつけた東京展を立ち上げて東京都美術館での開催に踏み切る。
 東京展は中村正義が個人の資産をつぎ込んで作った反日展、日本芸術院を頂点とする日本画壇の権威主義に対する徹底的な批判だった。中村正義はそのために資産をつぎ込み心身ともに犠牲にする。しかし東京展開催の2年後肺癌により52歳で亡くなる。
 笹木はまた中村が後進や貧しかった友人画家のために長年匿名で資金援助を続けていたことを明かした。毎月5万円を画家Yのために大手町画廊を通じて援助していたが、Yも未亡人も最後までそのお金が中村から出ていたことは知らなかった。
 この中村が批判した日本芸術院会員の選定には怪しげな噂が渦巻いている。会員に選定された画家は大きな名誉とともに作品の価格が跳ね上がることになる。会員の資格は終身なので誰かが亡くなって会員の欠員が生じたときに会員相互の選挙で新会員が選ばれる。候補となった画家や彫刻家は全国の会員を訪ねて金品を贈る運動をする。私(mmpolo)の知人で芸術院会員だった彫刻家の孫は、あるとき著名な画家西郷赤麿(仮名)が菓子折りにぎっしり札束を詰めておじいさんを訪ねてきた話をしてくれた。おじいさんは突き返したけれど、西郷はめでたく会員に選ばれた。また彫刻家のWさんも候補になった知人が画商からお金を借りて全国の会員に配って歩いたが、結局選ばれなくて自殺したと話してくれた。
 このあたりのことを小説に書いたのが、黒川博行『蒼煌』(文藝春秋)で、話は面白かったが後味の悪い小説だった。なかにこんな会話があった。

「客の入りはどないでした」ソファに座り、煙草をもみ消した。
「盛況でしたよ。元沢先生の絵はさらっとして華があるから」
「もう、ええ齢ですやろ。あの先生」
「八十四かな。さっき会場で挨拶したけど、眼光は衰えてませんね」
芸術院会員で文化勲章ももろてはる。功成り名遂げた人は気の持ちようが違うんですな」
「邦展一科のナンバースリー。ぼくらにとっては雲の上の人ですわ」
「ナンバーワンはやっぱり村橋青雅ですか」
「いまは弓場光明のほうが上かもしれませんね。村橋先生は九十五で、去年の邦展も出品していなかった。出入りの画商がいうには、寝たきりやそうです」
 寝たきりで絵は描けなくても隠然たる影響力がある。村橋は邦展の理事長経験者だ。
「九十五とはね。画家の先生は長生きしますな」
「絵描きやから長生きするんやない。長生きしたから大物になって名前が売れたんです」
 日本画は伝統を重んじる。伝統すなわち制約であり、花鳥風月を表現の対象とした具象画という制約の中で何百年の歴史を覆すような革新的な絵は生まれようがない。日本中の日本画家がすべて同じ技法で似たような伝統絵画を描いているのなら、結果的に長生きして長く描きつづけたものが勝ち残って画壇に君臨することになる。

 笹木の話の後で東京展の責任者が、自分は20年前に東京展に参加したが、笹木に教えられるまで東京展と中村正義との関わりを知らなかったと話した。
 笹木の話の後に質問の時間がとられたが、私は質問を控えた。知りたかったのは、中村正義が最後にあんなにも全身全霊を捧げて日展に対抗して立ち上げた東京展が、現在こんなにも疲弊してしまったのはなぜなのかということだった。中村正義が東京展の現状を知ったら、何と言うのだろうか。
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東京展
2018年10月7日(日)―10月14日(日)
9:30−17:30(最終日14:00まで)
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東京都美術館
電話090-8497−0574
http://www.tokyoten.com/


 

蒼煌 (文春文庫)

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