芸術院会員選挙をテーマにした『蒼煌』を読む

 黒川博行『蒼煌』(文藝春秋)を読む。日本芸術院会員の選挙を巡る話。先日、日展の書の入選選考に関して、実は日展顧問から各会派に入選者の割り当てがあったというニュースを聞いて、そのあたりのことを書いた小説がこれだと紹介されていたので読んだ。
 日本芸術院会員は定員制でしかも終身会員なので、会員が亡くなると初めて補充選挙が行われる。選挙は会員のみ投票権があり、特に美術部門では金のやり取りが激しいとは聞いていた。その内実を詳しく書いている。会員候補者は全国の芸術院会員を回って挨拶をする。その際、10万円から1,000万円の現金を配って歩くという。さらに諸会派の利害が入り乱れ、画商や政治家が介入し、まさに金の絡む汚いやり取りが続く。その内実を具体的に詳しく書いている。名誉と利権と金銭に対する欲得の物語だ。それに色欲も絡んでくる。読んでいて、あまりの汚い世界に、うんざりしてしまって、なかなか読み進められなかった。ボリュームのある小説とはいえ、読了するまで6日もかかってしまったのは、読みながら辟易してしまったためだ。
 汚い世界で嫌になってしまうよと娘に言うと、そんなの普通だよ、父さんはぼんやりしていて世の中のことがよく分かってないから驚いているんだけど、みんなそうなんだよと言う。そ、そ、そうなんだろうか? 
 私だって、芸術院会員選挙を巡って候補者が菓子折の中に現金を入れて配っている話は、現金を配られて断った彫刻家の孫にあたる人から聞いている。だからこれが本当のことだと疑わない。それにしても内実がこんなに汚いとは思わなかった。読んでいて落ちこんだ。
 作家の黒川は実に詳しく説得力のある書き方をしている。こんな複雑な世界をよくも見事に書ききったと感心する。日展をモデルにした公募展は邦展とされている。燦紀会というのは二科会なのだろうか。平山郁夫らしき画家も東山魁夷らしき画家も描かれるが、業界に疎い私には特定できない。黒川がどうしてこんなに詳しく書けるのかと思ったら、略歴に京都市立芸術大学を卒業したとある。それで内輪の情報に異常に詳しいのだ。
 ちょっとしたエピソードも内部を知っている人特有の真実っぽさがある。主人公らが日本芸術院会員の元沢英世の個展を見た後で、

「客の入りはどないでした」ソファに座り、煙草をもみ消した。
「盛況でしたよ。元沢先生の絵はさらっとして華があるから」
「もう、ええ齢ですやろ。あの先生」
「八十四かな。さっき会場で挨拶したけど、眼光は衰えてませんね」
芸術院会員で文化勲章ももろてはる。功成り名遂げた人は気の持ちようが違うんですな」
「邦展一科のナンバースリー。ぼくらにとっては雲の上の人ですわ」
「ナンバーワンはやっぱり村橋青雅ですか」
「いまは弓場光明のほうが上かもしれませんね。村橋先生は九十五で、去年の邦展も出品していなかった。出入りの画商がいうには、寝たきりやそうです」
 寝たきりで絵は描けなくても隠然たる影響力がある。村橋は邦展の理事長経験者だ。
「九十五とはね。画家の先生は長生きしますな」
「絵描きやから長生きするんやない。長生きしたから大物になって名前が売れたんです」
 日本画は伝統を重んじる。伝統すなわち制約であり、花鳥風月を表現の対象とした具象画という制約の中で何百年の歴史を覆すような革新的な絵は生まれようがない。日本中の日本画家がすべて同じ技法で似たような伝統絵画を描いているのなら、結果的に長生きして長く描きつづけたものが勝ち残って画壇に君臨することになる。

 なるほど! ところで、この元沢英世、村橋青雅、弓場光明がそれぞれ誰を仄めかしているのか、知っている人がいたら教えてほしい。
 小説としては優れているが、後味の悪い読書だった。


蒼煌 (文春文庫)

蒼煌 (文春文庫)