大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』を読む

 大岡信谷川俊太郎『詩の誕生』(岩波文庫)を読む。1975年に高田宏編集による「エナジー対話」の第1号として発行されたもの。『エナジー』はエッソ・スタンダード石油が発行していたPR誌で高田が編集長だった。私の知人が印刷会社の営業マンとして「エナジー」を担当していたが、後日高田が校正記号も知らない営業マンがいるとあきれていた。
 当時大岡も谷川も34歳くらいと若かった。3回に分けて対談したものをまとめている。「エナジー対話」として出版された後、同じ年に読売選書に収録された。その後2004年に新たな対談を加えて思潮社から新版が刊行されたとある。読売選書のあと長く新版が出なかったのも、本書があまり評判にならなかったためではないかと推測した。二人の詩人にあまり興味がないせいか、印象に残るところが少なかった。
 それでも気になった部分が何か所かあり、そのうちの一つを備忘録代りに記録しておく。

谷川俊太郎  現代詩の添削ってのも、ある条件の下にならあり得なくはないんだ。実は吉増剛造と僕とが、二人の共通の友人から、戯れに書いた詩の批評を求められて、いろいろ言うより添削するほうが早いということになったんだ。それで、ここをこう直して、この1行は削って、というようなことをしたら、少なくとも3人のあいだでは、直したほうがよくなったという結論が得られたわけだよ。
 しかし、この場合には、3人のあいだにいちおう共通の言語認識があったわけだ。言語認識と言うのは何かというと、結局は現実認識であって、この世界をどういうふうに感じているかということなんだと思う。そこでの大筋の一致がないかぎり、現代詩の添削は成り立たないのだけれども、そういう一致の可能性は、いま基本的に危うくなっているんじゃないか。……

 谷川が「共通の言語認識=現実認識」と言っている。むかし野見山暁治さんから、山本弘と野見山の「二人の絵は似ているね。それは二人のものの見方が似ているということなんだ」と言われたことを思い出した。



詩の誕生 (岩波文庫)

詩の誕生 (岩波文庫)