佐藤元状『グレアム・グリーン ある映画的人生』を読む

 佐藤元状『グレアム・グリーン ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会)を読む。グレアム・グリーンは『情事の終わり』や『第三の男』、『権力と栄光』などを書いたイギリスの作家。その作品と映画との関係を描いている。1904年生まれのグリーンは、1930年代後半、映画批評を書いていた。その頃4年半の間に400本以上に映画を見たという。グリーンの書いた小説が映画化されたものも多いし、『第三の男』や『落ちた偶像』は映画の企画が先にあってそのシナリオを書くにあたって小説を書いたという。
 佐藤は実にていねいに当時の映画とグリーンの作品との関係を洗い出していく。グリーンの初期の小説『ここは戦場だ』はコンラッドの『密偵』のリメイクとなっていると佐藤は言う。またヒチコックの映画『恐喝』の影響も具体的に指摘する。
 やはりグリーンの初期の小説『拳銃売ります』は、ヒチコックの映画『三十九夜』と「二重追跡のストーリーラインの驚くべき共通性」を指摘する。グリーンの初期の傑作『ブライトン・ロック』へのいくつもの映画の影響を挙げるが、決定的な影響はフランスの映画、デュビビエの『望郷』だという。グリーンの『恐怖省』に影響を与えたのは、フリッツ・ラングの反ナチス映画『マン・ハント』だった。
 中篇小説『第三の男』は映画脚本のために書かれた。そのことについてグリーンはこの作品の序文に書いている。

 まず物語を書いてからでないと、脚本を書くのは私にはほとんど不可能である。映画でさえも、プロットだけでなく、性格描写のある種の手法や、気分や雰囲気といったものに依存している。それらを最初から脚本の単調な省略表現で捉えるのは、私にはほとんど不可能のように思われる。別の媒体で捉えられた効果を再生産することはできるが、脚本のかたちで最初から創造することはできない。必要最小限のことよりも多くのことを知っていなければならない。だから『第三の男』は、出版を意図していたわけではなかったが、台本から台本へと無限とも思える変容を始めるまえに、まずは物語として書かなければならなかったのである。

 このことは、以前誰かが朝日新聞に書いていた井上ひさしの小説についての指摘を思い出させる。井上は劇作家だから、脚本には登場人物の精密な描写はしない。それは役者が舞台ですることだからだ。だから井上の小説は人物造形が不十分なのだと書いていた。
 映画批評家のリチャード・スロットキンは、西部劇について、暴力が正当化されるためには「暴力は救済をもたらすものでなければならない」と主張する。これを受けて佐藤は書く。

(……)グリーンは西部劇を下敷きに『第三の男』の物語を紡ぎ上げていく際に、このような西部劇のジャンルの掟を参照することになった。もしグリーンの物語に西部劇の痕跡が露わでないとしたら、それはグリーンの換骨奪胎の見事さを立証するものと言っていい。冒頭部のバーでの拳闘からクライマックスの下水道での決闘にいたるまで、西部劇への言及は一貫している。女性や子供たちといった社会的な弱者たちの描き方も西部劇の定石を踏まえたものと言っていいだろう。
 だが、おそらくグリーンにとって一番関心のあったものは、スロットキンが投げかけた西部劇の根本的な問いにほかならなかった。つまり、暴力はいかにして正当化されうるのかという本質的な問題である。

 本書は「エピローグ」でグリーンの『情事の終わり』に触れて最後としている。『情事の終わり』こそ私にとってグリーンの最も愛する作品だった。そしてグレアム・グリーンは高校生の頃もっとも好きな小説家だった。
 本書はグリーンと映画の関係を徹底的に究明している。それを読もうという読者がどれほどいるのかと他人事ながら案じてしまう。グレアム・グリーンのファンだったら十分楽しめることを保証します。


グレアム・グリーン ある映画的人生

グレアム・グリーン ある映画的人生