原武史『松本清張の「遺言」』を読む

 原武史松本清張の「遺言」』(文春文庫)を読む。日本政治思想史学者の原が、松本清張の晩年の作品『神々の乱心』と『昭和史発掘』を分析している。『神々の乱心』は未完に終わった小説だが、原は「天皇制と昭和史という二つの大きなテーマを見事に接合し、壮大な歴史推理小説として結実させていた」と評価する。
 原は『神々の乱心』のストーリーをなぞりながら、清張がそこに何を言いたかったのか読み解いていく。原が最初に要約している。

……その内容を一言でいえば、大正末期に満洲で「月辰会」という新興宗教をおこした教祖が帰国して埼玉県に本部を置き、宮中へと進出する。そして皇位の象徴とされる「三種の神器」や、特殊な宗教儀式に用いる半月形の凹面鏡をそろえて皇室を乗っ取り、昭和天皇皇位を否定するための何らかの行動を起こそうとするまでの野望を絵が描いた作品といえます。

 清張は現実にあった出来事を、ノンフィクションではなく小説という形で書いた。それで多くの登場人物や団体は別の名前に変えられている。原はそれらを本名に戻しながら説明していってくれる。教祖が皇室を乗っ取ろうとするなんて荒唐無稽に思われるが、清張は戦前、戦後に実際にあった動きを十分に踏まえているという。月辰会は宮中の女官を信者に取り込む。その最高位の女官が皇太后に影響を与える。皇太后とは大正天皇の皇后だった人で、昭和天皇とは宮中祭儀をめぐってしばしば対立した。そして昭和天皇の弟である秩父宮を溺愛していた。教祖が宮中の女官を通じて皇太后に働きかけ、秩父宮の擁立を画策していたかもしれないと思わされる。
 原武史は清張の小説の裏にそのような事実があり、それを小説という形で発表したのだと考えている。『神々の乱心』のストーリーを説明しながら、原は当時の歴史を語り、小説で示された人物が現実の誰に相当するか、示してくれる。しかし事件は複雑で、清張の小説の登場人物も多く、読んでいて混乱してくる。それを予想して、巻末に登場人物一覧が付されている。
 宮中の女官制度の不思議さも驚くほどだ。大正天皇の時代までは、女官は住み込みで独身でなければならず源氏名を持っていたと。
 なかなか面白い読書だった。