小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』を読む

 小川洋子河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮文庫)を読む。河合と小川が対談したもの。2005年と2006年に文化庁長官室で対談したが、その2度目の対談の2カ月後に河合が倒れ、翌年7月に79歳で亡くなった。軽い対談なのだが、さすが河合隼雄、ちょっとした話の奥に深いものが見られる。
 個性について二人が話している。

河合  (……)よほどのことでも、どこかの物語の中に必ずあると言っていいんじゃないかと思っています。
小川  神話とか説話とか昔話には、現代人の悩みがもう全て凝縮されて表現されていると、先生はお書きになっていらっしゃいます。
河合  ええ。だから、われわれのところにシンデレラや白雪姫が来ることもあるわけですよね。
小川  人間は繰り返し同じことを悩みながら生きているってことですね。
河合  その人の個性で、ちょっとずつ色が違ってきますけどね。

 これとちょっと違うが、コンラート・ローレンツが語っていることを思いだした。『人イヌに会う』(ハヤカワ文庫)から、

個性を誇大にいわれる人類にあっても、型は遺伝によってみごとに保存されている。(中略)私の子どもの一人に、4人の祖父母たちの性格の特質が、つぎつぎと、ときとして一度にあらわれるのを見て、私はしばしば神秘の念に打たれた――生者のあいだに死者の霊を見たかのように、私が曾祖父母を知っていたら、おそらくその存在をも子どもたちのなかに発見しただろうし、それらが奇妙にまざりあって、私の子どもの子どもたちにつたえられていくのをみることになったかもしれない。
 私は、みるからに無邪気で、素直な性質をもったちびの雌イヌのスージー――その先祖のほとんどを知っている――をみると、いつも死と不滅についてのそのような思いにかられるのである。私たちの飼育所では、やむをえず、許されるかぎりの同系交配が行われているからである。が、個々のイヌの性格の特性は、人間のそれとは比較にならぬほど単純であり、したがってそれが子孫の個体の特性と結びついてあらわれるときにいっそう顕著であるので、先祖の性格の特性のすべての再現は、人間における場合にくらべて、はかり知れぬほどはっきりしている。動物においては、先祖からうけついだ資質が個体として獲得したものによっておおいつくされる度合いが人間よりも低く、先祖の魂はいっそう直接的に生きている子孫に残され、死んだものの性格は、はるかに明白な生きた表現をとるのである。

 長い目で見ると、個性と思われているものが先祖から子孫に続く長い系統のうちに、繰り返し現れていると考えられるのではないだろうか。私の個性なんか、すでに何代か前の先祖と同じもので、神のような存在から見れば、繰り返される同じパターンの表現型に過ぎないのではないか。同じようにシンデレラや白雪姫も現われるのだろう。
 箱庭療法の有効性もちょっとだけ触れられている。箱庭療法ユングの弟子だったドラ・カルフが発展させ、河合が日本に持ち帰って研究を重ね、臨床に応用していった。箱庭療法は砂を入れた箱を用意し、それに家や人形や木や自動車等々のおもちゃを置かせることを繰り返し、そのことによって、精神的な障害を持った患者が恢復していくという療法だ。そのことが、最相葉月『セラピスト』(新潮社)に詳しく紹介されている。
 本書『生きるとは、〜』の巻末に「二人のルート――少し長すぎるあとがき」と題された小川の文章が載っている。文庫本で30ぺージある。あとがきであり、河合隼雄への小川の追悼だ。小川が河合を心から尊敬し、その死を悼んでいることがよく分かる。先日読んだ村上春樹『職業としての小説』(新潮文庫)でも、最後の章が「物語のあるところ――河合隼雄先生の思い出」という追悼文だった。河合に接した人がその死を深く悼んでいる、そのような人だったのだろう。


生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

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人イヌにあう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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