生々流転ということ、人はみな大陸の一塊。本土のひとひら

 先日紹介した大矢雅章『日本における銅版画の「メティエ」』(水声社)の中に脅威深いエピソードが綴られていた。祖母の臨終に立ち会った経験から「生々流転」を体得したという。祖母の闘病の終わりに立ち会った時、集まった親類達の顔、姿がよく似ていることに気がつく。

(……)集まった親類達の誰もが祖母の呼吸に注視する中、独りあることに目を向けた。祖母の呼吸よりも、そこに集まった年齢の異なる祖母の血縁の顔、姿を見比べる。そこには、驚くほど祖母によく似た面影を見る事が出来た。庭に咲く花々を見るように、血縁者達の顔や姿は、少しずつ変化しているのを見ることが出来るが、同じ血縁というグループに属していることがわかる。その時、祖母の死を悲しむことよりも、祖母はわれわれの中で今も生きているのだと実感した。その体験は哀しみよりも、人間も植物も同じように営みを繰り返し、悠久の時間を生きているのだと、心のうちに自然と了解する出来事となり、探求すべきテーマとして確立した。この体験から生命とはなにか、死とはなにかというテーマは、自分の人生に自然に寄り添ったものとして育まれた。

 これを読んだとき、コンラート・ローレンツの『人イヌにあう』(ハヤカワ文庫)に書かれているエピソードを思い出した。

 個性を誇大にいわれる人類にあっても、型は遺伝によってみごとに保存されている。(中略)私の子どもの一人に、4人の祖父母たちの性格の特質が、つぎつぎと、ときとして一度にあらわれるのを見て、私はしばしば神秘の念に打たれた――生者のあいだに死者の霊を見たかのように、私が曾祖父母を知っていたら、おそらくその存在をも子どもたちのなかに発見しただろうし、それらが奇妙にまざりあって、私の子どもの子どもたちにつたえられていくのをみることになったかもしれない。
 私は、みるからに無邪気で、素直な性質をもったちびの雌イヌのスージ――その先祖のほとんどを知っている――をみると、いつも死と不滅についてのそのような思いにかられるのである。私たちの飼育所では、やむをえず、許されるかぎりの同系交配が行われているからである。が、個々のイヌの性格の特性は、人間のそれとは比較にならぬほど単純であり、したがってそれが子孫の個体の特性と結びついてあらわれるときにいっそう顕著であるので、先祖の性格の特性のすべての再現は、人間における場合にくらべて、はかり知れぬほどはっきりしている。動物においては、先祖からうけついだ資質が個体として獲得したものによっておおいつくされる度合いが人間よりも低く、先祖の魂はいっそう直接的に生きている子孫に残され、死んだものの性格は、はるかに明白な生きた表現をとるのである。

 私には娘がいるが、娘がもし出産しなくても、私の血筋が断たれたとは思わない。私のDNAと共通するそれは私の従兄弟や従姉妹、また彼らの子どもたちに広く行き渡っており、それらは広みな私の一族だと思う。いや遠いか近いかに関わらず人はすべてそうなのだ。「人はみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ)。本土のひとひら」というジョン・ダンの詩を思い出す。

 

 

日本における銅版画の「メティエ」

日本における銅版画の「メティエ」