中野翠『映画の友人』を読む

 中野翠『映画の友人』(ちくま文庫)を読む。映画評論家でコラムニストの中野の半生記を綴ったもの。浦和市に生まれて小中学生時代を過ごし、女子高から早稲田大学に進んだ。1946年=昭和21年生まれの団塊世代の初っ端で、学生運動の華やかだったころを経験している。映画が好きではじめゴーストライターだったのが署名して映画評論を書くようになった経緯をエッセイ風にまとめている。
 私は昔若い女性との親密な付き合いがなかったので、ここに綴られている彼女たちの心情が新鮮だった。中野は8歳のときに見たオードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』で「美」の基準になった女優を知った。その後高校時代にミロのヴィーナスを見たが、オードリーはそれよりより断然キレイだと思った。しばらく前に林真理子と話したとき、林は断然ヴィヴィアン・リーが好きと言った。「林さんの少女趣味は、壮大で、波瀾万丈で、ドレスアップの世界で、悲劇志向だ」。中野の趣味と両極端だという。
 大学を卒業してアルバイトをしていた頃、銀座並木座へ会社を抜け出して『フーテンの寅』を見に行っていた。そのころ『フーテンの寅』を気に入っていたが、今では広告を見るだけでもゾォーッとするほどだ、と書く。
 また、ユーミンが作ったバンバンの『いちご白書をもう一度』に対して、猛烈に腹が立ったと書く。なんと不潔な気味の悪い歌詞なんだ?! と。

 ああ、なんと情けない70年代。私たち、いわゆる全共闘世代はわけわかんない下の世代にこんな歌詞を書かせることを平気で許してしまったのだ。こんな、ようするに「ボクも反体制反権力みたいなことやったけど、若気のいたりつーか、青春のハシカつーか。でもよかったよな、あのころのボクたちは純粋だった……」みたいな、死ぬほど陳腐で安ぽいセンチメンタリズムを許してしまったのだ。

 「私はこういうふうに、おのれの「バカ」を「純粋」といいくるめるような浅薄さというのが大嫌いだ」。

……生活スタイル自体、私は今でも「学生サン」みたいなものである。昔、この映画(ゴダールの『気狂ピエロ』)のピエロ同様、私はいつも1冊のノートを持ち歩き、なんだかわけのわからない詩みたいなメモみたいな文章を書きとめていて、昔はそれは商品にも何にもならなかったが、今は商品になっている。それを商品化してギャラをかせぎ、生活している。そこが違うだけだ。

 本書を、それなりにおもしろく読んでいたが、違和感もあった。なんだか文章がユルイのではないか。昔読んで気に入っていた彼女はもっと鋭かったはずだ、と考えて自分の間違いに気がついた。矢島翠と勘違いして読んだのだった。もう30年以上前、矢島翠は新聞に優れた映画評を書いていた。矢島は団塊の世代よりも1世代上の人だった。加藤周一夫人でもあった。勘違いした私が悪かった。


映画の友人 (ちくま文庫)

映画の友人 (ちくま文庫)