トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』を見て読む

 トルーマン・カポーティティファニーで朝食を』を見て読む。最初にオードリー・ヘップバーンが主演した映画を見た。オードリーの映画は50年以上前に『マイフェアレディ』と『ローマの休日』を見て以来だ。原作は龍口直太郎訳の新潮文庫を35年ほど前に読んでいた。
 映画はカポーティの原作とはずいぶん違ったものになっている。映画での改変に対してカポーティが怒っていたという。原作のヒロインであるホリーはあばずれ娘なのだ。あばずれでありながら憎めない無邪気なところがある。無垢なあばずれ、カポーティが書きたかったのはそんなヒロインなのだろう。原作にホリーの言葉が書かれている。

(……)そりゃ、こないだの晩はいかにも大きなこといったけど、実のところ、恋人はいままでたった11人しかつくらなかったのよ――13になる前のは、いちおう勘定に入れないことにしてね。だって、結局、そんなのぜんぜん数のうちにはいらないもん。そう、11人きりよ。それくらいの数で、あたしがパンパンってことになるかしら? 

 ホリーは14歳で農場主と結婚し、翌年家出して、男たちに貢がせたりしてここ6年間を過ごしてきた。金持ちを見つけて結婚直前まできていたのに、マフィアの麻薬取引の片棒を担いでいたことがばれて、玉の輿は破局になってしまう。
 映画では作家の「私」ポール・バージャックとのハッピー・エンドになるが、原作ではブラジルへ行き、その後アフリカまで流れて行っている。カポーティが不満を持ったのがよく分かる。
 映画のプロデューサーはオードリーを主演にすることを決めた段階で、ホリーのあばずれ性をできるだけ薄めるよう脚本を改変している。あばずれはオードリーのイメージに合わないからだ。
 結果として映画は興行的に大成功を収めた。ひとえにオードリーの人気であり、そう思われるように脚本を変えているからだ。プロデューサーの成功と言えるだろう。そのため原作は哀れなほど滅茶苦茶にされてしまった。
 そういえば映画製作の内幕を描いたゴダールの『軽蔑』もプロデューサーと監督と脚本家が別々のことを考えて映画を作る話だったし、吉田喜重の『女のみずうみ』は川端康成の『みずうみ』とはタイトル以外ほとんど原作とかけ離れたものにしてしまっていた。映画は原作とは別物なのだ。
 私にとってオードリーは特別好きな女優ではなかった。だから、この映画の魅力はストーリーの面白さだけだった。そのことに限ればなかなか楽しめた。
 閑話休題
 実は私にとって、オードリーとは小池正司君を連想する女優なのだった。小池君は小学校、中学校、高校の同級生で、しかし同じクラスになったことはなく、親しくなったのは高校を卒業してからだった。田舎で浪人をしている時に、小池君ともよく会っていた。彼が中学の同級生を好きだったことや、オードリーが好きなことを話してくれた。その結果から、私が君はエラの張った女が好きなんだと断定すると、小池君は、馬鹿野郎ふざけるなと反論した。しかし何年か後に結婚すると報告してくれたとき、お前の言った通りだったよと認めたのだった。
 小池君は3年前に亡くなってしまった。今回久しぶりにオードリーの映画を見て小池君のことを偲んだ。共通の友人だった原和もハムも疾うに亡くなっている。原和が亡くなったときもハムが亡くなったときも、小池と酒を飲みながら故人を偲んだが、小池が亡くなっても共に偲ぶ友人がいなかった。映画を見て、ひとりで小池を偲んで辛かった。
 さて、私の読んだ原作は龍口直太郎訳だった。文庫の初版が1968年になっている。その割に訳文が古いのだ。
 「ブアボン」の訳注が(アメリカのウイスキー)となっている。バーボンのことだ。「行列」に「パレード」のルビが、「華吹」に「ファンファーレ」のルビが付いている。「古典音楽レコード」は「クラシックレコード」のことだろう。村上春樹が新訳を作った気持ちがよく分かる。

 

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