山田宏一『美女と犯罪』を読む

 山田宏一『美女と犯罪』(ハヤカワ文庫)を読む。正確なタイトルは『映画的なあまりに映画的な 美女と犯罪』という。映画をテーマにして女優たちを語っている。欧米の美人女優たちを一人一人彼女たちの主演した映画を絡めてていねいに紹介している。膨大な映画を見ている山田だから縦横無尽に数々の映画を引用する。まるで個々の映画を素材にある女優という物語のシノプシスを提出しているみたいだ。読みながらただただ圧倒されてしまう。先日読んだ金井美恵子の映画論だって山田に比べれば見劣りがしてしまうほど。
 キム・ノヴァクについて、

 肩ぐりの深いノースリーブの白い徳利衿(とっくり)のセーターからむきだしになった肩と腕がほとんど猥褻と言っていいくらいまぶしくセクシーだったし、首をかくしたタートルネックはまるで首も肩も露出したら淫らすぎることを恥じるかのように清楚にはにかんでいた。
 キム・ノヴァクがあの妖艶な誘惑のまなざしを男にそそぐときには、きまって両頬に恥じらうようなえくぼができる。挑発する美と羞じらいにみちた誘惑との奇妙な混合。それを女の香りと呼ぶならば、「ムーン・グロウ」のうっとりするような旋律にのってキム・ノヴァクが夏の夜の石段を一歩、一歩おりてくる『ピクニック』、シャム猫とともにキム・ノヴァクが夢のなかから魔女となって出現してくる『媚薬』、アド・キルーの狂気にうわずった賛辞そのままにキム・ノヴァクがかつてルイズ・ブルックスがいたということをほとんど忘れさせてしまうくらいに美しい『女ひとり』、淡いグリーンのネオンに彩られて死者の中からブロンドのキム・ノヴァクが甦ってくる『めまい』、ビリー・ワイルダー監督によれば無邪気であるがゆえに挑発的なセックス・アピールをマリリン・モンローよりもマリリン・モンロー的に発散してみせた『ねえ! キスしてよ』と、キム・ノヴァクほど女の香りをただよわせた女優もいなかった。『ジャスト・ア・ジゴロ』ではすでに45歳の大年増になったキム・ノヴァクだが、いまなお美しくセクシーな背中を見せてデイヴィッド・ボウイとタンゴを踊るシーンには、その残り香がにおっているようだった。

 なんというオマージュ。山田は個々の女優に対して、キム・ノヴァクと同じような賛歌を書きつける。彼女たちの魅力の源泉を的確に指摘していく。
 山田の大好きな女優アンナ・カリーナについて書きながら、ゴダールについての厳しい評価を書き連ねる。

 1968年の〈五月革命〉をへて、ジャン=リュック・ゴダールは、それ以前のすべての〈商業映画〉を、すべての自作を、根底的に(すくなくとも過渡的に)否定したが、しかし、アンナ・カリーナが演じた7本のゴダール映画は、その官能的な過激性のゆえに、永遠不滅である。そして、実際、その後のゴダールの、たとえば『パッション』のような作品につらぬかれた明晰さはある種澄明な美しさにすら達しているとは思うけれども、『気狂いピエロ』のような、愛のメロドラマと〈革命的闘争映画〉のあいだを彷徨しながらある種の〈混沌〉のなかを暴走していたかに見えた当時のゴダールの映画的アクションの感動は、もはや、まったくないのである。

 アンジー・ディッキンソンについて、

殺しのドレス』の彼女は50歳。映画の冒頭のシャワーのシーンは吹替えだと騒がれたものだが、あの年齢を隠せない手の甲のしわとは対照的になまなましく美しい骨格とそれなりにしまった肉の視覚的感触は絶対にアンジー・ディッキンソンそのひとであって吹替えのヌードではないと私は固く信じるものである。それに、アンジー・ディッキンソンがどんなときでもみずからぬぎ捨てて裸を見せたがる露出狂の女であることは、バート・バカラック夫人だった時代から、つとによく知られていることだ。

 すばらしい本だ。ここに紹介されている映画を片っ端から見たくなった。


新編美女と犯罪

新編美女と犯罪