文京アートの「吉仲太造 没後30年展」を見る


 東京八丁堀にある文京アートで「吉仲太造 没後30年展」が開かれた(7月3日まで)。吉仲太造は1928年京都市生まれ、小学校を卒業後京都市立美術工芸学校の受験に失敗する。1946年京都人文学園絵画部(のちの行動美術京都研究所)が設立され、研究生として学ぶ。
 はじめ行動美術協会展に出品し、1953年からはアンデパンダン展にも出品する。1955年タケミヤ画廊で初個展。のち岡本太郎の勧めで二科会に出品し会友となる。40代からときどきうつ病の発作を起こす。1985年、食道静脈瘤破裂と肝硬変を併発し56歳で亡くなる。
 作風はしばしば大きく変貌する。初めは東京都現代美術館に収蔵されている吸盤を大きく描いた蛸の絵「地球人」などを激しい色彩で描いていたが、その後太い釘を画面に規則正しく貼り込んだ抽象的な作品、そして新聞の株式欄を貼り込んだミニマル・アート風の作品、また突然真っ赤な郵便ポストを描いたりもした。つぎにシルクスクリーンを使って、コラージュ的な作品を作り、ついでグリーンシリーズと名付けた紙にガッシュで描いた単色の色面の作品がくる。最後に「非色」と称した白い絵が始まる。それは亡くなるまで続いた。この白い絵が戦後日本美術の傑作と言いうるもので、吉仲太造を歴史に残る画家とした。
 今回文京アートの個展では吉仲のいくつかの時代の作品が並べられていた。2年前にもこの画廊で吉仲の個展が開かれており、すべて画廊が所蔵している作品のようだ。冒頭に掲げた作品が私が白い絵と呼んだもので、1980年に描かれた「或る時空間 H」という145.5cm四方のキャンバスの作品。この頃の吉仲の作品は、白いバックに線描のように、単純な机や椅子、電燈、猫、ぶどう、花瓶、窓、帽子とステッキと眼鏡、また水道の蛇口などを描いている。文字で書くとなんということはないが、実物を見れば盗みたくなるくらい美しい。


 吉仲太造については、画家たちにさえ驚くほど知られていない。戦後日本を代表する重要な画家のひとりだというのに。1999年末から2000年にかけて開かれた渋谷区立松濤美術館の吉仲太造展はすばらしかった。そのカタログに、光田由里が「非色」の絵画について書いている。

 吉仲のこの連作は、彼が考案した特殊な方法で作られている。ペインティングナイフで、白い絵の具をカンバスに盛り、まず絵の具によるレリーフで形象を作る。それを完全に乾かした後、全体を黒く塗りつぶしてしまうのである。真っ黒につぶれた画面を、今度はオイルを含ませた布で、少しずつぬぐいとっていく。すると、下層の白が再び現れ始める。ぬぐい切れない黒が、絵の具のレリーフの形に染み付き、消しきれなかった形が、奇跡のように浮かび上がって、絵画が現れる。
 このような独特の手続きは、消去の果てに絵を出現させること、とでも呼べばよいのだろうか。描かないで描くこと、無化の果てに、結果的に絵画が現れるための、とても逆説的な方法を彼は考えたのであった。
 そうして出現するのは、ぎりぎりにそぎ落とされた、最小限の静物画である。日常的にありふれた物たちが記号的なまでに還元されたかたちでそこにある。

 光田のすぐれた解説は渋谷区立松濤美術館発行の『戦後美術を読み直す 吉仲太造』に掲載されている。あれからもう16年が経ったのか。そろそろ別の美術館でまた吉仲太造展を企画してくれないだろうか。
 文京アートは地下鉄日比谷線およびJR京葉線八丁堀駅A2番出口から徒歩2分のところにある。銀座中央通りから歩いても10分かからない。東京では珍しい天井がとても高いギャラリーだ。今回の吉仲太造展は終ってしまったが、また企画してくれる機会もあるだろう。吉仲はきわめてすぐれた戦後日本を代表する画家のひとりなのだから。


 以前、吉仲太造の優れた小品「明り」を紹介した。これも読んでほしい。
吉仲太造「明り」(2006年12月23日)
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「吉仲太造 没後30年展」
2015年6月23日(火)−7月3日(金)
11:00−18:30(日・月休廊)
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文京アート FUMA CONTEMPORARY TOKYO
東京都中央区入船1−3−9 長崎ビル9階
電話03−6280−3717
http://www.bunkyo-art.co.jp