半藤一利「荷風さんの戦後」を読む

 半藤一利荷風さんの戦後」(ちくま文庫)を読む。半藤一利永井荷風の日記「断腸亭日乗」に即して戦後の荷風の生活をたどっている。半藤が荷風を尊敬していて、だから視線が暖かい。戦後熱海の知人宅に一時世話になったが、ようやく東京、正確には千葉県市川へ落ち着く。この頃多くの雑誌社から小説の掲載を求められ、荷風ブーム到来とまで言われた。さらに中央公論社から永井荷風全集全24巻の発行も決まる。そんな中で荷風は浅草のストリップ小屋へ通ったり赤線地帯を彷徨したりしている。半藤はそんな荷風の行動をていねいに追いかける。
 昭和27年に73歳の荷風文化勲章を受賞する。順風満帆のごとくだが、半藤は書いている。

……戦後の荷風作品から、ゆるやかに推移する季節感がなくなってしまっていることに、心底がっかりさせられる。しっとりと日本の風土が匂い立つような、荷風独特の自然描写が読みたいと思うのに、宗旨替えしたように消え失せている。まったくの話、風情のないことおびただしいものがある。
 で、そんな短篇ばかりを読まされると、石川淳さんのあまりにも有名な酷評に賛意を表したくなってしまう。「おもへば葛飾土産までの荷風散人であった。戦後はただこの一篇」で「ほかは「小説と称する愚劣な断片」であると(「敗荷落日」)。

 以前にもこの「敗荷落日」を紹介したことがあるが、もう一度再録しよう。

「敗荷落日」は永井荷風を論じている。「敗荷」の意味を知らずに辞書を引いたら、「秋になって風などに吹きやぶられたハスの葉」とある。「荷」がハスのことだった。では荷風は蓮に吹く風だったのか。石川淳はこの標題を「敗荷落日」としている。ここにもう荷風に対する評価がはっきり表されている。
 これも10ページほどの小編だが、冒頭と末尾を引いてみる。

 一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。
 おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
(中略)
 むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。

永井荷風に対する石川淳の苛烈な追悼文(2011年2月9日)

 この半藤一利荷風さんの戦後」は楽しい読書だった。嵐山光三郎と執筆の雰囲気が似ているのは同じく編集者だったという経歴によるものだろうか。どちらも割合柔らかいが、嵐山の方が少し硬いと思う。私は嵐山でも少々柔らかすぎると思っているのだが。
 音楽評論家の吉田秀和にも「荷風を読んで」という永井荷風論がある。吉田秀和全集で50ページ近い長いものだ。吉田は荷風について、若い頃米仏に留学して個人主義とヨーロッパの音楽を知って帰国した荷風にとって日本は生きにくく、江戸趣味と享楽に走ったのだと好意的に書いていた。
 またドナルド・キーンも晩年の荷風に会った印象をこう語っている。

 日本にいる外国人は日本人が自分たちをあまり家に招かないとよく言う。私は幸運にも多くの作家から自宅へ招かれた。一番忘れ難いのは、永井荷風の家だ。(中央公論の)嶋中さんが荷風に会う時に私を同伴したのである。市川に向かい、狭まった道路を歩くと表札もなく目立たないお宅に着く。私たちは女中らしい人に案内されて中へ通された。日本人はよく「家は汚いですが」と謙遜しても実は大変清潔であるが、荷風の部屋は腰を下ろすと埃が舞い立った。荷風は間もなく現れたが、前歯は抜け、ズボンのボタンも外れたままの薄汚い老人そのものだった。ところが話し出した日本語の美しさは驚嘆するほどで、感激の余り家の汚さなど忘れてしまった。こんな綺麗な日本語を話せたらどれほど仕合わせだろうと思った。

ドナルド・キーン「私の大事な場所」を読む楽しみ(2010年11月7日)
 敗荷であり、驚嘆するほどの日本語を話す人だった。

荷風さんの戦後 (ちくま文庫)

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安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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私の大事な場所 (中公文庫)

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