野口冨士男『わが荷風』(岩波現代文庫)に荷風の絶倫ぶりが紹介されている。
もともと荷風には詠嘆癖があって、自身の健康を実質以上に低く表現する傾向があるので、彼が好んで吐く弱音を正直に受け取ることは危険きわまるものの、『墨東綺譚』が発表された年ではなく、実際に執筆された年――昭和11年2月24日の『断腸亭日乗』には、《余去年の六七月頃より色欲頓挫したる事を感じ出したり。》《色欲消麿し尽くせば人の最後は遠からざるなり。依てこゝに終焉の事をしるし置かむとす。》という記述があって、《遺書の草案》なるものが記載されている。そして『墨東綺譚』には《今の世から見捨てられた一老作家の、他分そが最後の作》などという文字までがみられる。
これも真に受けてはばかをみるだけのことかもしれないが、ふたたびいえば、戦前の年齢感覚は戦後のそれと同日ではない。還暦をまぢかにひかえて、事実はどうあろうとも、荷風は迫りくる老いの自覚のなかで男性としての自身が終ること――すくなくともそれが遠くないことを意識していた。男性との永別の自意識がリアルな散文精神から遠ざからせて詩的精神におもむかせ、『墨東綺譚』を書かせたのだと、私は思う。見聞記などとのんきなことを考える人は、老いの自覚がもたらす寂寥感を知らないのだろう。
『墨東綺譚』を書いていた昭和11年、荷風は満57歳だった。「 老いの自覚がもたらす寂寥感を知らないのだろう」と書いた野口は、この時満62歳だった。
ここでちょっとD. ロッジの小説『学園ニュース』(白水社)を思い出す。
50というのはいい歳だ。なぜなら、女が「いいわ」と言えば嬉しくなり、女が「いやよ」と言えば、ほっとするから。
さて、荷風は日記『断腸亭日乗』に、性行為を行った日は小さな○印を付けていた。昭和23年の○印を見ると、
……その《○》印を前章では22年5月までひろっておいたが、同年の下半期をとばして23年の分をみると次のような状態で、死に2年先立つ32年――かぞえ年では79歳の3月18日が、その最後だったようである。
1月=11。
2月=9。
3月=9。
4月=5。
5月=5。
6月=6。
7月=6。
8月=6。
9月=4。
10月=5。
11月=5。
12月=5。
通算では76回で、1年のうち2か月半をその面にあてていたことになる。
そして、その23年はじめから翌24年の晩秋に至るまでのほぼ2年ちかい期間には1篇の小説も執筆されず、それに代わって23年末から25年春にかけて3作の《浅草向脚本》が書かれている。
この76回を数えた昭和23年は荷風満69歳だった。
そして荷風の最後が語られる。
昭和27年4月ごろから30年11月ごろにかけていったん銀座に興味を移した荷風はふたたび浅草へもどって、生涯の最後の年――昭和34年1月1日以後も1日として浅草行を欠かさない。それも時刻まできまっていて、『日乗』の終末部は《正午浅草。》という記述の連続であり、羅列である。(中略)
《2月26日。朝雪。正午浅草。》
《2月27日。晴。小林来話。正午浅草。》
《2月28日。晴。正午浅草。》
そして、翌日の『日乗』には次の記載が認められる。
《3月1日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。》
この日かぎり、荷風の浅草行は絶える。そして、《正午浅草。》が《正午大黒屋。》という記述にかわる。
私は行ってみた。大黒家は上野や押上から行って京成八幡駅の左側のホームとほそい道路をへだてた真裏の食堂で、彼の住居からは徒歩1分である。その店で、彼は毎日カツ丼を食べた。来る日も来る日も、食堂のカツ丼ばかり食べた。《大黒屋昼食。》という記述が最後にみられるのは4月19日である。
そして、彼は大学ノートに記す。
《4月29日。祭日。陰。》
大黒家には行っていない。
永井荷風が遺体となって、自宅の奥座敷で通い婆さんに発見されたのは、翌30日の《午前8時10分ごろ》であったと、当時の新聞のひとつは報じている。
荷風満80歳だった。普通これを絶倫の生涯と言うだろう。
閑話休題。私も5年ほど前、大黒家に行ってみた。荷風定食がメニューにあった。そのことは下に記した。
・大黒家の荷風セット(2009年7月13日)
・
老人の性というと、いくつかの小説や詩を思い出す。
・団鬼六『最後の愛人』を読む(2007年12月14日)
・『ベニスに死す』と『眠れる美女』(2012年6月6日)
・野長瀬正夫の詩(2007年6月22日)

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