今井むつみ「ことばと思考」を読む

 今井むつみ「ことばと思考」(岩波新書)を読んだ。地味めのテーマだと思ったがずいぶん面白かった。本書カバーの惹句から、

私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から明らかにする。

 人は言葉によって世界を切り分けている。その切り分け方が人種(言語)によって異なっている。

英語は歩く、走るなどの動きでは、「どのように動くか」で非常に細かく動作を区別してカテゴリーをつくっているのに、「どのように持つか」に関してはほとんど区別しない。ただ、モノを持つだけで移動を伴わないholdとモノを持ちながら移動するcarryは、まったく別の動作として区別される。
 日本語は英語よりも少し細かく「持つ」動作を分けている。例えば、肩でモノを支えて持つのは「担ぐ」、背中で支えるのは「背負う」、両腕で支えて持つのは「抱える」である。このほか、日本語は人(子ども)やペットのような特別な動物のときは、「背負う」ではなく「おぶる」と言い、「抱える」でなく「抱く」と言う。(中略)
 日本語よりさらに細かく「持つ」動作を分けるのが中国語である。中国語は体のどの部分でモノを支えるかだけでなく、モノを持つときの手の形でも動詞を区別する。

 まずアメリカの言語学者ウォーフの仮説が示される。

ウォーフはアメリカ先住民のホピ族の言語であるホピ語の分析などをもとに、人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する、と主張した。特に、ホピ語と英語をはじめとする標準西洋言語との間の隔たりは、「埋めることのできない、翻訳不可能な」ほど深い溝であると言って、大きな物議をかもした。

 また英語は数えられるモノと数えられない物質の名前を文法的に区別する。この可算名詞と不可算名詞の区別が世界の見方に影響を与えている。可算名詞であるコップの一部(取っ手)はコップではないが、不可算名詞であるバターの一部はバターなのだ。

 このようにコップのようなモノと、バターのような物質は、「同じ」という概念自体が異なる。つまり両者は、根本的に性質の異なる存在なのである。これを哲学では「存在論」的区別と呼ぶ。

 さて、子どもを使って実験をした。日本語で「わたる」とは2点が何かによって隔てられている場合だ。それが山のように垂直方向に突出した障害物だと「越える」という。「わたる」では、海、川、道路、線路など高さのない2つの地点を明確に隔てている場合であり、テニスコートのように地続きになっている場合は「通る」と言う。
 それに対して英語ではgo acrossまたはcrossという。どちらも同じ意味で日本語のような区別はない。そこで日本とアメリカの赤ちゃんに、人が線路をわたるシーンと、道路をわたるシーン、テニスコートを横切るシーンのビデオを見せて、赤ちゃんの反応を調べた。その結果、14カ月の赤ちゃんでは違いがなかったのに、19カ月の赤ちゃんでは両国の赤ちゃんに違いが現れた。日本の赤ちゃんはテニスコートの方を好んで見たが、アメリカの赤ちゃんはそれを道路のシーンより好んでみることはしなかった。

赤ちゃんがそれぞれ自分の言語を学んでいくうちに、自分の言語で区別しない要素に対して、注目しなくなってしまうのだ。日本語は「わたる」「越える」のように、動詞を使い分けるのに場所の情報が重要だ。英語は場所の情報によって動詞を使い分けることをしない。

 豊富に語られる事例がびっくりするほど面白い。こんな興味深いことが語られる。

私たちは世界にあるモノや色、モノの運動などを、単に見ているわけではない。見るときに、脳では、ことばもいっしょに想起してしまうのだ。たとえそれが、一瞬のことで、意識的には気づかず、記憶に留まることがなくても、だ。つまり何かを見るとき、言語を聞こうと聞くまいと、言語は私たちの認識に無意識に侵入してくるのである。

 最後に著者はウォーフ仮説に対しても一定の保留をする。異なる言語の話者の間での認識の違いについて、理解不可能なほど違う認識を持っているとは考えにくい。しかし一方言語が世界の切り分け方=認識に大きな影響を持っているのも事実なのだ。
 認識に関する問題が、哲学の思弁の世界から認知心理学の実験と分析の世界に徐々にシフトしつつあるのだろうか。


ことばと思考 (岩波新書)

ことばと思考 (岩波新書)