宮岡伯人「エスキモー 極北の文化誌」を読む

 千野栄一が「ことばの樹海」(青土社)で、青木晴夫「滅びゆくことばを追って」(岩波同時代ライブラリー)が面白いと推薦していたので読んだら実に面白かった。そのことは私も先日(3月4日)紹介した。千野はもう1冊、宮岡伯人の「エスキモー 極北の文化誌」(岩波新書)も推薦している。

 本書(宮岡伯人エスキモーの言語と文化」)は、わが国で唯一人のエスキモー学者が、数度にわたる現地調査をもとに、「エスキモー語の移り変わりや文法構成などを平明に紹介しつつその生活と文化にも言及する」と書かれているが、まさにその通りの本である。この本はフィールドノートではないので、やや真面目すぎるところがあるが、これは説明されるエスキモー語の構造が一定の説明を要求せざるを得ないからに他ならない。何はともあれ見事な、いい本が出たものである。
 ところがその9年後の1987年に著者の宮岡はこの拙文の筆者の懇望をも入れて、ことばを追う人々の姿、フィールドワークも入れた、より一般的な読物を岩波新書に「エスキモー 極北の文化誌」と題して上梓している。この本はさらに面白くよくできた本で、フィールドワークのことから始まって、エスキモーの西と東の文化の差、夏と冬のくらし、ことばからみた文化へと進み、この各章のあとには1つずつ計4つの説話がついていて、どこからどこへという結びへとつながっている。(中略)
 この「エスキモー 極北の文化誌」は手頃で、面白く読めるような工夫がなされているので、フィールドワークへの手引きとしてもいい。

 こんなにほめられていては読まないわけにはゆかない。だが、期待が大きすぎたのか、読んでみたらさほど面白いといったものではなかった。エスキモーの文化や言葉に興味があれば別だろうが。そういう点では、青木晴夫「滅びゆくことばを追って」はインディアンの言葉に特に興味を持たない私にも大変面白く読めた。
 ただ宮岡のこの本にも興味をそそられるところがあった。

 そのような例(文法形式の根本的なちがいを教えてくれる言語)のなかでも、とくに興味深いのは、E. サピア(Sapia)が挙げている「石が落ちる」をあらわす諸言語の表現である(「文法家とその言語」1924年)。「石が落ちる」というだけの、ありきたりの現象をあらわすのに、なにか根本的にことなる文法形式があるのだろうか。
 ところが、カナダ太平洋側のヴァンクーヴァ島で話されるヌートカ語(ウォカシュ語)では、この同じ現象を物体と運動というふたつにわけた捉えかたをしないという。かわりに、かならずしも石でなくてもよいのであるが、石あるいは石的な固形物の一般的な運動や位置に言及する、(もちろん同言語にも「石」ということばがないわけではないのであるが、)いわば「石る」という動詞的要素と、方向が下向きであることに言及する要素にわけられる。このふたつによって構成される、いわば「石下る」とでもすれば理解しやすい、ひとつの動詞でこの現象を表現するのが自然なのである。
 このように、(「それはカヤックだ」にたいする)「それは私のカヤックだ」であれ、「石が落ちる」であれ、きわめて単純な表現内容が、われわれが予測もしないような文法形式でしか処理しない言語があるとすれば、ものを認識するにあたってかならずしたがう普遍的な基本形式として哲学者がたてる「範疇」とこれはどのようにかかわってくるのであろうか。アリストテレスがヌートカ・インディアンであったならば、どのような『範疇論』をわれわれに残していたであろうか。いわゆる論理の範疇が哲学者の母語の言語形式に影響され拘束されやすい傾向は、サピアが「哲学における日常言語性(フィロソフィック・ヴァバリズム)」とよび、故泉井久之助先生もこれを「言語被拘束性」となづけられたことがある。

 ※引用文中「石下る」の「下」は小さい文字。
 追求すればなかなか面白いテーマではないか。

エスキモー―極北の文化誌 (岩波新書)

エスキモー―極北の文化誌 (岩波新書)