吉田秀和の小林秀雄批判

「小林秀雄のモーツァルト論について書く吉田秀和」(2010年5月9日)に続いて再び吉田秀和による小林秀雄批判を「之を楽しむ者に如かず」(新潮社)から紹介する。

 これまでも書いたことだが、小林秀雄のあの評論(?)(=小林秀雄の『モーツァルト』)は、私が音楽についてものを書くようになった一つの大きなきっかけ−−啓示といってもいいような−−になったものである。あれを読んで、「ああ、そうか。こういうことが可能なのだ」と目を開かされた点がある。
 といって、小林秀雄の書いた『モーツァルト』の中にモーツァルトがいたか? というとこれは疑問だ。彼はあの中で、ゲーテだとか、スタンダールだとか、アンリ・ゲオンだとか(これははっきり名前をあげて書いてないけれど、小林さんには、どうも、そういう癖があった)を、自由に思うがままに、天才的に巧妙に、引用したり、利用したりしながら−−もちろんモーツァルトにもふれながら−−いろいろとおもしろい話をきかせてくれた。あれは読んで、とてもおもしろい読みもの。それこそ、読んでいて、わくわくさせるものさえあった。
 あれは、私の心を自由にしてくれた。何から自由に? モーツァルトを軸にして、自分のことと、自分の心の翼を自由に拡げ、気持ちよく飛びまわるのを許すのに、加勢してくれた。
 と、ここまでは、私は、その後の長い年月の間に、わかってきていた。あの論文(?)を読まなくなって、長い年月がたつが。
 でも、さっきふれたように、最近、ある席で、全く別々に、二度まで、小林秀雄のことをきかれているうち、もう一つ、このことで私が言うべきことに気がついた。
 小林秀雄はあの中で「一つのモーツァルト」、「彼のモーツァルト」を書いたのだ。そうして、それは、いろんな人からの引用だとか何だとかがあるにせよ、小林のもの、ほとんど小林の創ったといってもいいほど「小林的な」モーツァルトとなったのである。いや、彼は「自分のモーツァルトを創るのに成功した」のである。
 そうして、多くの人々に、あれを読んで、そこにモーツァルトを感じ取った−−「モーツァルトがここにいる」と思わせるのに成功した。ここにモーツァルトが立っていると信じたくらい。
 小林のあの論文(?)は天才的な独創性に富んだものだと思う。そうして、その天才的独創性は実に日本語の力、日本語の天才と結びついたものだ。こんなことはいうまでもないように思われるかもしれないが、そうではない。その証拠に、あの論文はほかのどこの国の人たちよりも日本語のわかる人たちの共感を呼び覚ますものになっている。つまり、ほかの言語に直して読んだら、−−他の言語に訳したものでしか読めない人が読んだら−−私たち日本語で読むものほど、−−わからないし、感じないと思う。もう一歩踏みこんでいえば、あれは、他国語に翻訳されたら、ほとんどわからないのではないか。(後略)

 さすが吉田秀和さん、すごいことを言っている。

之を楽しむ者に如かず

之を楽しむ者に如かず