吉田秀和『永遠の故郷−薄明』を読んで

 吉田秀和『永遠の故郷−薄明』(集英社)を読んだ。これは『永遠の故郷』シリーズの2冊目、この「薄明」のほかに「夜」「真昼」「夕映」がある。『永遠の故郷』は吉田秀和が生涯で印象に残った歌曲97曲を取り上げ、原詩と吉田による訳詩、楽譜の一部を織り込んで解説したもの。エッセイ集としてもすばらしい。
 全4冊完結後にCD版も発売された。97曲をCD5枚に、原詩と訳詩を対訳にした訳詩集4冊とエッセイ1冊からなっている。歌手や演奏者も吉田自身が選んだという贅沢なもの。ただ8,400円もするので買ってはいない。
 さて、『永遠の故郷−薄明』のなかに分からない詩があった。いや、くだらないような疑問なのだけど、分からないので悔しいのだ。
 プーランクの『17世紀の詩による陽気なシャンソン』という歌曲集について、吉田は書く。17世紀の詩ということになっているが、じょうだんの好きなアプリネールの戯作かもしれないという気もする。この曲は猥褻ではあっても猥雑ではない、と。詩は原詩が掲載され、吉田による訳詩が並べられる。ここでは訳詩のみ紹介する。
 まず、第1曲「浮気な女房」

おれの女房は浮気もの
おれの敵(かたき)は運が良い
そいつが生娘を手に入れたとぬかすなら
あの女にゃ 2枚あったわけ
勝手にしやがれ
どこへなり行くがいい。

 なるほど猥褻で分かりやすい。
 で、分からないのが第4曲「マドリガル

誓います 息ある限り
君を愛すと、シルヴィーよ
運命の女神さまがた
わが玉の緒を握る皆様の手で
力の及ぶ限り 私めの命の糸を
引き延ばし給えと 切に切に願い奉ります

 詩に続けて吉田は「何を長くしてほしいのかって? きかなくっても、わかるでしょうに」と書いている。いえ、分からないのです。
 また、第7曲「美しき青春」では吉田にも分からない単語があるという。

常に愛さねばならぬ
でも結婚するのはどうかな
愛するのは絶対必要
でも司祭や公証人はいらない


結婚は、諸君、やめとくがいい
目指すは ただ おなかだけ
目指すは ただ tourelours*のみ
結婚は、諸君、やめとくがいい
目指すは ただ 心臓のみ
結婚は 皆さん やめるがいい
オラー 諸君、ただ心臓のみ

 吉田が注して、「* toureloursとは、何のことか。私の字引には出て来ない。従って、注釈もつけられない」と。
 以前、娘に言われたこと。父さんはアスペルガーだから隠れた意味、裏の意味が分からないんだよ。そうなのかもしれない。
 だれか分かった人がいたら教えてほしい。
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 閑話休題。最近、音楽之友社から『吉田秀和−音楽を心の友と』というMookが発行された。白石美雪による生前の吉田秀和への長いインタビューや、吉田のレコード評の抜粋、年譜と著作一覧。この著作一覧には初出時の表紙写真と書評も掲載されている。そして吉田自身の「折々の言葉」。また亡くなる直前に『レコード芸術』編集部がもらった「之を楽しむ者に如かず」の最終原稿が、自筆と活字の両方で掲載されている。それが「ハイフェッツホロヴィッツ」。

ツィゴイネルワイゼン》をあんなに甘くひくことができて、しかも下品にならない、きく人を悪酔いしたみたいな気分にしない。それがハイフェッツだったのである。

 日曜日朝のNHKFM放送『名曲の時間』の語り口、あの声を思い出す。ありありと蘇ってくる。すこししゃがれた声でぼそぼそと喋るあの話し方を。吉田には会ったことがない。映像もテレビで何度か見かけたくらいだ。ただ声は、NHKFMで毎週日曜日欠かさず10年以上聞いていた。声は肉体を彷彿とさせる。声を通じて吉田は近しい人だった。吉田秀和が亡くなってしまったことが悲しい。
 これは私の宝物。この人を知って良かった。
 追悼文は、片山杜秀、白石美雪、青柳いづみこ、矢澤孝樹、山崎浩太郎、広瀬大介が書いている。

永遠の故郷――薄明 (永遠の故郷)

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CD版 永遠の故郷

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ONTOMO MOOK [完全カラー保存版] 吉田秀和―音楽を心の友と

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