『今を生きるための現代詩』が秀逸だ

 渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)がすばらしい。タイトルが分かりにくいが、現代詩の入門書だ。そういうと何だか七面倒くさい感じがするが、本書は掛け値なしの名入門書と言える。
 現代詩を読む人はきわめて少ない。わが尊敬する岳父もぼくは詩は分からないと言う。私は少しは分かるつもりでいた。ところがどうして、本書を読んでちっとも分かっていなかったことに気がついた。詩の入門書というと、代表的な詩をあげてそれを解釈してみせてくれる。あるいはアンソロジーを示して詩の世界へ誘うという戦略を取っている。本書はどうか。
 渡邊は中学2年の教科書に載っていた谷川俊太郎の詩「生きる」を挙げる。この簡単にみえる詩がのみこめなかったという。この詩が中学の教科書に採用されたのは、教科書を作った人たちが、この詩は平易な言葉で書かれているから分かりやすいと考えたせいだ。しかし、語彙や文法が日常的なものでも、作中のピカソやヨハン=シュトラウスの作品を知っていなければイメージが共有できない。言葉はやさしくても、この詩自体は経験の少ない子どもに分かりやすくはないのだ。それに対して、同じ谷川俊太郎の「沈黙の部屋」というシュールレアリスムの詩は、13歳の「わたしの感情をはげしく揺さぶった」。
 ついで紹介されるのは黒田喜夫「毒虫飼育」だ。「こんな危険な魅力をもった詩があるのか、という衝撃がはじめにきた」と渡邊は書く。そしてつぎに入沢康夫の「「木の船」のための素描」が引かれる。その第1連を引用する。

 乗組員はだれあつてこの船の全景を知らぬ


 一つ一つの船室は異様に細長い。幅と高さが各3メートルで、長さは10メートルといつた具合に(そして1×1×3メートルといつた狭い室もある)。隔壁はすべて厚い槙の板で作られており、室によつては粗笨な渦巻あるいは直線と弧を組み合わせた抽象図形が彫り付けられてある。そのような細長い室、大小さまざまなそれらが、上下左右前後に連なり積み重なつて、五十? 七十? その正確な数を知るものはいない。

 そのあとも、各連の見出しのようなゴシック文字を拾うと、
「船外の景色を見たものもいない」
「ここではいくつかの人間的欲望が失われている」
「これが船であるかどうかも疑わしい」
「決して入ることができない船室」
「鳥たちだけはまつたく自由に隔壁を通過する」
「もし外部から見たとすればこの船は単に一個の木箱に過ぎない」
 これまたシュールレアリスム的な展開を見せている。渡邊は「一読しただけで「木の船」は忘れられないものになり、何百回も繰り返し読んだ。/こころにいれた刺青のように、この詩はわたしのなかの消えないかざりになった」と書く。「こころにいれた刺青のように」なんて、さすがに詩人のレトリックだ。さらに渡邊は何年も経ってから、この詩に触発された奇妙な夢まで見ている。
 第3章で渡邊が引くのは安東次男の「みぞれ」という詩である。その全文。

地上にとどくまえに
予感の
折返し点があつて
そこから
ふらんした死んだ時間たちが
はじまる
風がそこにあまがわを張ると
太陽はこの擬卵をあたためる
空のなかへ逃げてゆく水と
その水からこぼれおちる魚たち
はぼくの神経痛だ
通行どめの柵をやぶつた魚たちは
収拾のつかない白骨となつて
世界にちらばる
そのときひとは



泪にちかい字を無数におもいだすが
けつして泪にはならない

 この詩について渡邊は書く。

 詩の冒頭の「地上にとどくまえに」は、タイトルでもある「みぞれ」のことだと思われる。するとこれは、天から降ってきて地に落ちるのがあたりまえであるものが、地にとどくことができずに折返すという中絶の場面である(しかしそれは「予感」の話であって現実ではない)。ゴールに到達するまえに、動きの矢印は折れてもどってしまう。そこからはじまるのは「ふらんした死んだ時間たち」であり、太陽があたためるのは「擬卵」であって卵ではない。つぎつぎに登場するのはどれも、とどこうとしてとどきそこねるもの、実体ではなく虚像である。水は空へ逃げてゆくのに、魚はかえってそこからこぼれおち、白骨となる。すべてがちぐはぐに挫折している。
 そのときひとが「おもいだす」のは水の部首をもつ無数の文字だが、それは「泪」にちかいところを旋回しつつけっして「泪」に到達しない。そして、こうした目にもあやな超現実的描写の一部始終を、ひとは音読することができないのである。われわれはこの光景を、黙って目撃させられるだけだ。
 黙らされながら感じているのは「泪」に象徴されるようなはっきりした感情ではない。読者は、もうすこし不透明で伝わりにくい「なにか」のなかに、しばし宙づりにされるのである。
 ここでは、詩句に表現された「とどきそうでとどかない」感じが、読む者の心の動きに変換されていく。(後略)

 渡邊はこの後、「みぞれ」よりももっと過激な安東の詩「薄明について」(97行、8ページ強)を全文紹介する。そして、「この「薄明について」という詩は、絵画にたとえると抽象画なのだと思う」と書く。ついで、

 抽象画とはなにか。/抽象画というものは、絵画の歴史においてきわめて現代的な「事件」だと考えてよいものではないかと思う。/伝統的な絵画においては、それを描く者は、みな具体的なかたちをとった「なにか」を描いた。たとえば人物、静物、風景のような。/そのとき、それらを描く全員は、その絵の「目標」や「到達点」をおおまかに共有できていた。到達点は架空のものでよく、おおざっぱにいえば「カミワザ」のようなものだ。具体物を絵画の画面にいきいきと再現してみせるためのさまざまな工夫が、すなわち画家の関心事であった。/しかしこうした「伝統的絵画」に対して、あるとき「現代絵画」というものがあらわれる。「伝統的音楽」に対しても「現代音楽」があらわれた。「現代絵画」や「現代音楽」は、もはや、それをする全員が共有する目標や到達点というものをもっていない。表現に臨むひとりひとりがそれぞれのビジョンと課題をもちはじめたのである。言いかえれば、架空の「到達点」は人によってことなるということになったのだった。

「薄明について」のなかの「薄明」や「海のいろ」や「巨きな掌」などもろもろのことばは、抽象画の画面を構成している絵具なのである。その表現が写実性に欠けると批判してもしかたがない。われわれが見るべきなのはたぶん、この詩のおどろくべき静謐さ−−いや、静謐というのは比喩的に受けとられるかもしれないから、「無音状態」と言いかえよう、そういう「音のなさ」である。安東次男は、ここで「音のない詩」を試みたのだった。

 第4章では川田絢音(あやね)の詩が紹介される。その詩について渡邊が書く。「おそろしい詩だ。/彼女の夫の外出がたんたんと示され、もう次の行で、それがよくない秘密であることが示唆される」。ここで語られている詩「日曜」の途中を引く。

 夜になって、
「映画に行く」
 と、彼女の夫が外出した。
 飛行場予定地の金網のところで、
「映画に行くと言ってきた」
 と言われたことがある。

 また、次の詩「外側から」について、「一読では気づきにくいが、ていねいに読みなおしていくと、これがたくさんの男たちの、それぞれべつべつの台詞なのだということがおぼろげにわかる」「すべて、性愛の場面か、それに近いところでのことばだろう。この詩に「外側から」という題が与えられたのは象徴的だ。異国の男たちは「外側」なのであり、「内側」である自分自身との通路は性愛だけなのだ」
 題5章で語られる井坂洋子の詩は魅力的だ。「山犬記」全文と「山犬記II」の部分、そして「山犬記III」全文が紹介されている。この詩の不思議さとそれを読み取る渡邊の手腕がとてもすばらしい。現代詩にこんな深みが隠されているとはほとんど知らなかった。本書で示された渡邊の導きに従って、入沢康夫詩集、安東次男詩集、そして何よりも井坂洋子詩集を読んでみよう。