大江健三郎をしつこく批判するジャーナリスト

 大江健三郎「河馬に噛まれる」所収の短編「死に先だつ苦痛について」の中に大江に対して批判的なジャーナリストの存在が描かれている。

 三年ほどたって、大学紛争のさなかだったわけだが、「全共闘」の指導者格の働き手たる、タケチャンの噂を聞いた。やはり大新聞社が出している硬派週刊誌の記者から、本気で仲介役を引き受けようとしているのか、冷笑的な気分で傍観がてら一役買うというわけか、真意のつかみにくい電話がかかってきたのだ。ーーおたくは、と記者が呼びかけたこと、すでに深夜に近い電話だったことも、あの時期、大学紛争の造反側に同情的だったジャーナリストたちの、ある雰囲気とともに思い出すが、かれの一方的にしゃべったことを要約すると、次のようであった。
 おたくはかつて戦後民主主義のスポークスマンの役割を、進んで引き受けていた。大学紛争がーーつまりかれの用語法ではーー始まって以来、ずっと沈黙しているのは、カルチェ・ラタンの五月革命の情報もずっと眼にしてきたはずで、おたくの仏文同期や先輩に、造反側の有力なシンパが多いのを見ても不自然な気がする。

 おなじく大江健三郎「二百年の子供」(中公文庫)に書かれているエピソード。

 ーー……ぼくはパパの留守の間、郵便物を整理する係でした。そのなかに、もと新聞記者の出している七、八ページの「通信」があって、パパが「小ずるい言論弾圧をする」と書いていました。
 新宿駅で障害のある息子を道連れに自殺しようとして失敗した。それを記事にしようとするメディアに手をまわした……

 この他にも大江の小説にくり返し現れるこの大江を攻撃する人物、それが誰であるかを私はWEB上の大江健三郎ファンサイトで知った。本多勝一だということだ。元朝日新聞記者、「戦場の村」「中国の旅」等々の名新聞記者、今も「週刊金曜日」の編集委員として活躍している人。わが高校の先輩。その人が大江の迫害者だった! これもWEB上で調べると本多勝一に関するサイトが二つあり、一つはファンサイト、もう一つは本多を攻撃するための右のサイトだった。その本多勝一ファンサイトで本多と大江の論争があったこと、その結果は本多の一方的な勝利で、最後に大江は何も反論できなかったと勝利宣言がされていた。
 ついで、Wikipedia本多勝一の項から、大江に関する部分を引用すると、

『核戦争の危機を訴える文学者の声明』をめぐる大江健三郎批判への批判


1982年に小田実小中陽太郎中野孝次が中心となって『核戦争の危機を訴える文学者の声明』(後に岩波ブックレットから公刊)が発表された。この声明には大江健三郎も呼びかけ人に加わっているが、それに対し本多は、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞芥川賞直木賞など)を貰ったりその審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判。大江に公開質問状を送った(大江は何も回答せず)。

但し、この声明の呼びかけ人の中には大江以外にも井伏鱒二井上靖井上ひさし(後に「週刊金曜日」の編集委員になっている)・生島治郎堀田善衛といった芥川・直木賞の受賞者が名を連ねているし、賛同者に至っては司馬遼太郎など明らかに文春に近い文化人・文学者が大勢名を連ねている。このことから本多の批判はむしろ内ゲバに近いのではないかという批判も少なくない。

なお、本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも「週刊金曜日」誌上で集中的に批判的に取り上げているし、大江が九条の会の呼びかけ人の一人になった時にも、エッセイ『貧困なる精神』で名指しこそしないものの会自体に疑問を投げかけている。

 本多勝一には、まるまる1冊大江批判の著書がある。「貧困なる精神X集 大江健三郎の人生」(毎日新聞社)だ。
 「週刊金曜日」に大江批判を3回連載した後、読者からの感想を求め、それを2回にわたって掲載した。最初の反応は大江擁護が多かった。それに対して2回目の反応は圧倒的に大江批判のものだった。そもそも本多の大江批判が品のないものだったが、本多に同調する読者たちも大同相違だった。大江の小説は読んだことがないとか、読んでも分からなかったという感想が目立った。何だか2ちゃんねるを見ているみたいだった。
 もしかしたら「貧困なる精神」とは著者自身のことだろうか。