吾嬬神社

mmpolo2006-12-24




 東武鉄道亀戸線という小さな支線がある。曳舟から亀戸を結ぶ線で駅の数が5つだけ。その真ん中が東あずま駅、変な表記には訳があって本来は東吾嬬(ひがしあづま)が正しい。
 この辺りは東京都墨田区立花と言い、その1丁目1番地に吾嬬神社がある。御祭神は弟橘媛オトタチバナヒメ)、日本武尊ヤマトタケルノミコト)の妃だ。弟橘姫を祭るので吾嬬神社(吾嬬=わが妻)。本当に小さな小さな神社で常駐する宮司もいない。近くには墨田区香取神社江東区香取神社、また有名な亀戸天神など大きな神社がある。
 ヤマトタケルが横須賀走水港から総の国(千葉県)を目指して浦賀水道を航海しているとき嵐が襲い船が難破しそうになった。海神を鎮めるために弟橘媛が海に身を投げると嵐が治まり無事に対岸につくことができた。その後西の方に舟を進めると一つの島が見えた。そこに弟橘媛の衣服が浮かんでいた。ここに築山を作り衣服を納めた。これが吾嬬神社のいわれとされる。


 吾嬬神社には楠の枯株が残っている。これはヤマトタケルが媛のため神前に箸を捧げたのが大きな楠になった。
 ヤマトタケルが関東を去るとき足柄峠から東を振り返り、亡き妻を偲んで「吾嬬はや」と言ったので関東を東(あずま)と呼ぶようになったとされている。
 このように地名のいわれを説明する伝説を地名説話というが、実際は逆で地名の方が古いことは言うまでもない。したがって、ヤマトタケルの説話もオトタチバナヒメもあずまの語源も皆こじつけに過ぎない。
 吾嬬神社の地は古代浮洲の森と言われ、小さな島のようになっていたようだし、縄文時代の土器も出土している。古墳ではなかったかとも言われている。すると関東でも最も古い神社の一つではないだろうか。今でこそ小さな神社にすぎないが、隅田川にかかる吾妻橋だって吾嬬神社への参道だからこの名前があるのだ。
 江戸時代には広重の浮世絵「吾嬬社夜雨」にも取り上げられている。


 吾嬬の地名が多いのは群馬県だ。古代群馬県に「あずま」という国があり、関東がその勢力範囲だったのではないか、特に吾嬬神社の地がその出先の拠点になっていたのではないかなどと想像してしまう。