佐久間文子『美しい人』(芸術新聞社)を読む。副題が「佐多稲子の昭和」、作家佐多稲子の伝記である。佐多稲子はプロレタリア作家に分類されるが、その狭いジャンルに留まらず、現代日本のきわめて優れた作家のひとりと言える。佐多は明治37年生まれで、平成10年94歳で亡くなっている。
私が読んだ『夏の栞』は、副題が「中野重治をおくる」であり、若いころから付き合いがあり、佐多が作家になるのを勧めた佐多にとって恩人でもあり左翼運動の同志でもあった中野重治の臨終までを書いている。もし私がベスト・オブ・ベストといった小説を選べばそこに抜かすことのできない傑作だと思っている。その佐多稲子の伝記なのだ。
佐多稲子は7歳で母を亡くした。父は何度か結婚を繰り返し、しかし仕事に失敗し、子供(稲子と弟)を連れて東京へ引っ越す。東京でも家庭を顧みない父親は、稲子をキャラメル工場の女工として働かせる。
佐多稲子はその後も料理屋の小間使いや日本橋丸善の店員などをして生活費を稼ぐ。のちに座敷女中やカフェで働いていたとき、客として来ていた中野重治やのちに夫となる窪川鶴次郎らと出会う。中野重治は詩を書いていた佐多稲子に小説を書くよう勧め、佐多は「キャラメル工場から」を書き、それが評価されて小説家として出発する。
佐多と窪川は独身だった中野重治に佐多の友人の舞台女優原泉を紹介し、中野は原泉と結婚する。その中野が亡くなって2年後に佐多は「夏の栞」の連載を始めている。
以前私が『夏の栞』をブログに紹介したレビューを再録する。
1979年の7月14日に新宿の女子医大病院に中野重治が入院するその前日から書き始められている。中野の日々の病状が綴られ、1か月少しの8月24日に亡くなって、そこまでが半分弱。残りで佐多と中野の50年の付き合いを振り返っている。
中野重治は胆のう癌だった。徐々に衰弱していく中野の症状に原泉夫人は神経がすり減っていく。佐多は遠慮しつつ彼らに寄り添う。亡くなる前日の中野の言葉が本書のハイライトとなる。
仰向いている中野は目をつぶり、それが眠っているかとも見え、私は原さんに並んで掛けたまま、ものを云わなかった。卯女さん(長女)が病室とロビーを行き来している。松下さんと曽根さんもいるが、みんな病室では声を押えた。私もまた、目をつぶっている病人の顔を見ているだけであり、中野は私のそこにいることを知らない筈であった。病室は広い窓があって明るかったが、その光線を避けて病人の顔の周囲には、いつものように紐を張ってタオルが掛けてある。
その紐の一端が何かのはずみで解け、中野の顔の上に垂れた。中野の顔に当たるのでもなかったが、真上に垂れ下がった紐だから、私は手をのばしてそれを上にあげた。眠っているかと見えた中野にその気配が感じられたらしい。
「稲子さんかァ」
と、弱く、ゆっくりと中野は声を発した。私の返事するまもなく、原さんがそれをとらえ、ぴしりと聞こえる調子で云った。
「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」
それは以前に原さんがそう云ったことのある言葉とまったく同じ文句であった。中野の脚の冷めたいのを、さわってみて、と原さんが云い、私がそれに従ったとき、それが私だというのに中野が気づいた。そのとき原さんは今と同じことを云ったのである。原さんの、どうして、というのに私は答えようがない。私にもそれはわからないのだ。私としては、病人の神経の、弱っているようでいてどこかに残る敏感さか、とおもうしかなかった。今も、中野は原さんのそう云ったのを聞き取った。原さんの言葉に対して中野が答えたのである。
「ああいうひとは、ほかに、いないもの」
そう聞いた一瞬、私は竦(すく)んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた。ゆっくりと云った中野のそれは原さんへの答えだが、ひとりでうなずく言葉とも聞え、私にとってそれは、大きな断定として聞えた。中野自身は、自分のその言葉を、云われた当人が聞いている、と知っていたであったろうか。その意識はないように見えた。私だけがその言葉を強烈に聞き取った。私は中野のそう云うのを自分に引きつけて、ほめ言葉と受け取ったのである。しかしそのほめ言葉にどう対応のできる今の状態ではなかった。中野はあるいは混濁した意識において意味もなくつぶやいたということかもしれない。私はわが胸の一方でそうもおもって引下がりながら、そのまま黙っていた。原さんもその瞬間、答えに詰まったようであり、そのまま何も云わなかった。
私が今、自分へのほめ言葉と受け取った中野重治のその言葉をここに書くのには、神経への抵触を感じる。しかしまた書かないなら、それはつつしみではなく自分にとって偽善になるという感じをどうしようもない。大仰なひとりのみ込みを晒す結果ではあっても、私は書きとめておきたい。しかもそれは、中野から私が聞いた言葉として最後のものでもあったという理由が私を許す。会話とはならなかった。それは中野の半ば独り言であった。がそれは、自分に引きつけて受け取れば私について云われた、私の、誰からも云われたことのない最上の言葉であった。それも、長年のつきあいのうえで云われたのであれば、私がどうして書かずにいられよう。こんな私の感情自体も、この長いつきあいの間の、中野重治に対する私の立場をあらわしていようか。
佐多稲子が書き辛そうにして書いていることから読みとれるのは、微かではあるがくっきりとした佐多と中野の秘められた愛情だ。そのことを佐多が屈折してこのように書いていることを見事だと思うのだ。
『夏の栞』の紹介は以上。
本書は優れた佐多稲子の伝記だ。もしわずかでも不満を述べるとしたら、表題にもある「美しい人」である佐多稲子の美しい写真を載せてほしかった。若き頃から持てていた佐多稲子は確かに美しかっただろう。しかし表紙に選ばれた佐多のポートレートはそれを感じさせない。ほかに違う写真はなかったのだろうか。