佐多稲子「時に佇つ」は名作だ

 佐多稲子「時に佇つ」(講談社文芸文庫)はまぎれもなく第1級の名作だ。佐多の経験した過去の12のエピソードが語られる。佐多は感情の微妙な揺れ、心の襞をていねいに記述してゆく。最初の短篇は隅田川沿いの高速道路を走るシーンから始まり、車は高速を降り路地を進んで作家槙卓也の旧蹟をたずねようとしている。佐多とおぼしい作家は昔槙卓也に数回ほどその旧蹟でフランス語を習ったことがあった。メリメの短篇をテキストに使って、槙の住んでいた座敷でそれを読んでもらったのだった。佐多はその思い出をまるで手の中に包み込んでいるようになで回し、少しずつ蜜柑の皮をむくように語っていく。
 ここで槙卓也とされているのは、佐多の履歴を知っていれば堀辰雄だと分かるだろう。佐多は女工丸善の店員、カフェの女給などを経て中野重治窪川鶴次郎ら若きプロレタリア作家たちと知り合い、彼らの薦めで小説を書き始める。その過程でフランス語を学びたいと思い、堀辰雄が個人教授をしてくれることになった。その授業は数回だけだったようだ。だが、佐多は「私にとって、美しくおもえたあのときは、たしかにあったことなのである」と結んでいる。
 途中、槙卓也の境遇がさりげなく語られている。複雑な家族関係に置かれていたことを。
 佐多稲子は普通プロレタリアート作家に分類されるが、槙卓也の思い出に続く2番目の短篇(タイトルが「その二」となっている)で、実はストーリーの展開がきわめて巧い作家でもあったことが示される。
 佐多稲子の傑作「夏の栞」が思い出される。佐多は決して広大な場所ではなく、狭い所をていねいに耕して奇跡のように宝石を取り出して見せてくれる。中野重治堀辰雄が巷から拾い出した無学な小娘がこんなに偉大な作家になろうとは!
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佐多稲子「夏の栞」(2007年1月3日)


時に佇つ (講談社文芸文庫)

時に佇つ (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)