佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮文庫)を読んだ。関東大震災後の混乱にまぎれてアナーキスト大杉栄と伊藤野枝、それに大杉の甥の少年の3人を虐殺したというテロリストとして、その後満洲国を作った政治の黒幕として有名だ。
次の言葉は、1998年の読売文学賞を受賞した渡辺保の「黙阿弥の明治維新」に対する選者である井上ひさしの選評だ。(井上ひさし「全選評」白水社より)
著者は、山ほどもある資料を読み抜き、ときには黙阿弥自身の談話まで疑い、歯切れのよい文章で明晰な論を展開し、これまで通用していた定説を片っ端から打ち砕き、新しい黙阿弥像を創り出した。けだし文による一偉業である。これは決して過賞ではない。
この「黙阿弥」を「甘粕正彦」に変えれば、そのまま佐野眞一の「甘粕正彦 乱心の曠野」に当てはまる。
歴史上、大杉栄らを虐殺したのは憲兵大尉だった甘粕正彦だとされていた。佐野眞一は多くの関係者と直接会い、膨大な資料を読み込み、真実を追究していく。まるでミステリを読んでいるみたいだ。裁判で甘粕は3人をそれぞれ後ろから右腕を首に巻き付けて10分ばかりで一気に絞め殺したと証言した。ところが何十年も経って出てきた死因鑑定書には、遺体の状況について医者の目で見た死因が詳しく記載されている。それによると、
大杉も野枝も、明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けている。そして虫の息になったところを、一気に絞殺された。「死因鑑定書」が雄弁に語っているのは、甘粕供述とはあまりにもかけはなれた集団暴行による嬲(なぶ)り殺しの実態である。
細部にこだわり、徹底的に裏付けを取りながら、佐野は本当の下手人を追いつめていく。そしてその下手人たちがその後どのような人生をおくったかまで調べ尽くす。直接手をかけた憲兵たちはなぜかほとんど満州で短い一生を閉じている。しかし黒幕たちは出世し、一人は少将にまでなり後に大阪の大きな神社の宮司になった。もう一人も少将になり、後の防府町長になった。別の一人は中将にまで出世している。
甘粕は満州に渡り、満州建国に大きな力を発揮し、満映理事長に就任し満州国の「夜の帝王」と呼ばれたという。放漫経営で赤字続きだった満州映画社の経営を短期間で建て直し、中国人スタッフの給料を引き上げ、有能な実務家であることを示した。信奉者も多かったという。しかし、終戦直後に青酸カリを飲んで自殺した。膨大な資金を動かしていたにも関わらず、自分のためには蓄財しなかった。それは佐野眞一が「阿片王」で書いたもう一人の満州の黒幕里見甫と共通している。
文庫本600ページ、これが本当にミステリを読むような面白さだった。興味深いエピソードも満載されている。小澤征爾の父親小澤開作は満州青年連盟の有力メンバーで、尊敬する板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」をとって、息子に「征爾」と名付けた。
佐野眞一は「阿片王」とこの「甘粕正彦 乱心の曠野」で現代最高のノンフィクション作家であることを揺るぎないものとした。私は佐野を立花隆より高く評価する。
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