水性インクのことなど

 朝日新聞の俳壇に根岸哲也(東京都)の俳句が載っている(8月12日)。選者は高山れおな。


ウ オ ッ シ ャ ブ ル ブ ル ー イ ン ク 買 ふ 茄 子 の 花

 「評」の欄で「水洗い可」の横にウオッシャブルとルビが振られている。茄子にも「なす」と。もう25年ほど前になるが、野見山暁治さんに書いた手紙に返事をもらったことがあった。野見山さんの手紙が明るい青のインクで万年筆で書かれていた。そのころ勤続20年ということで会社からモンブランの万年筆をもらった。それで野見山さんをまねて青いインクを詰めてみた。パーカーのロイヤルブルーだ。野見山さんのインクとは色合いが違ったが結構気に入った。普段万年筆を使う機会は少なくて、せいぜいメモか画廊を回った時の記帳くらいだった。
 万年筆はワイシャツの胸のポケットに挟んでいたが、まれにキャップが外れることがあった。ワイシャツのポケットに青い染みができた。ところがロイヤルブルーは水性インクだったので洗濯をすればきれいになった。何枚もワイシャツを駄目にしないで済んだ。
 その頃表参道のミズマアートギャラリーで山口晃の初個展があった。画廊の前にテーブルと椅子が置いてある庭みたいな空間があって、山口さんがそこに一人で座っていた。今もらった個展のチラシを差しだしてサインをお願いした。私が差しだした万年筆でなんと花押を書いてくれた。何年も経ってからチラシを引っ張り出してみると、水性インクの文字は薄くなって消えそうだった。ボールペンで書いてもらえばよかった。
 万年筆を使い始めて10年ほどしたころから右手の人差し指が変な風に曲がるようになってしまった。バネ指の専門医からさらに紹介されて西所沢の防衛医科大学付属病院の整形外科医へ。そこでフォーカルジストニーと診断された。10年ほど前に書いたその症状を再録する。

 私は奇病を持っていて治療のため大学病院へ通っている。2年ほど前から万年筆で字を書こうとすると人差し指の力が抜けて万年筆が持てなくなってしまったのだ。人差し指を使わないで書いた字は見られたものではない。ボールペンだと問題ないのは強く握って書くからだろう。近所の内科医に書痙でしょうかと相談すると、いやストレスです。別の、今度は外科医に相談するとレントゲンを撮り血液検査までして、ストレスだねえ。
 会社の定期健康診断でストレスの診断をしてもらうと、「総合的にみると、あなたはストレスに強い性格のようです。領域的に見れば多少弱い部分がありますが、大きな問題はありません」となった。
 半年ほど前新聞にバネ指のことが紹介されていた。老人に多く、指が曲がったまま戻らなくなる症状とのこと。早速新聞に紹介されている専門医を訪ねる。診察のあと、私は3年前からこの病院でバネ指の治療をしています。3年間で3人だけバネ指ではない患者さんが来ました。あなたがその3人目ですと言われた。musician's hand とか local dystoniaという病名です。専門医を紹介しますと言って教えてもらったのが防衛医大付属病院だった。
 こちらで見てもらうと正に局所ジストニア=Focal dystonia だった。ピアニストやギタリストの指が曲がって演奏できなくなる。銀行員が判子を押そうとすると手首が反り返ってしまう。あなたみたいに万年筆では書けなくてボールペンなら書けるというのは普通と逆ですね、ボールペンだと書けないという症例の方が多い。昔は書痙といいました。ストレスが原因です。

 病院へ通ったが結局症状は治らなかった。ただ万年筆を握ったときのみ出る症状なので、万年筆を使わなければ問題がない。
 文中紹介した山口晃さんの花押がこれ。