未完の大作「カラマーゾフの兄弟」と「存在と時間」

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)
 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」を読んだ。いま話題の亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版だ。全5巻、4部構成の1部を文庫1冊にあて、エピソードを1冊にあてて5巻としている。しかしエピソードはたった60ページほどなので、そこに「ドストエフスキーの生涯」90ページ、「年譜」10ページ、「外題『父』を『殺した』のはだれか」180ページを加えている。いずれも著者は訳者の亀山郁夫。この全5巻で現在累計25万部出ていると言うからすごい。
 この180ページもある長い外題で、「カラマーゾフの兄弟」はドストエフスキーが書こうとしていた小説の第1部であること、そして書かれなかった第2部についてはどのような内容かを推測している。大まかなトレースはしているものの材料が少なすぎるため、やっと夜中に遠い人影を見るときくらいのおぼろな形だ。
 「カラマーゾフの兄弟」が未完の偉大な小説なら、未完の偉大な哲学書ハイデガーの「存在と時間」だ。20世紀最大の哲学書といえばたいていこれが選ばれる。非常に有名だが読み切った人は少なかろう。何せ難しすぎるのだ。これも前半のみ書かれて後半はついに書かれなかった。正確には予定していた第1部3篇、第2部3篇のうち第1部の1、2篇が完成したのみなのだ。予定の3分の1にすぎない。
 ドストエフスキーカラマーゾフの第2部を書けなかったのは第1部を完成させたあとすぐに亡くなってしまったためだが、ハイデガーは書くのに行き詰まったのだ。その未完に終わった難解な「存在と時間」を〈完成〉させた本がある。現象学木田元の「ハイデガー存在と時間』の構築」(岩波現代文庫)だ。
ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)
 木田元は「存在と時間」についてハイデガーの意図を、既刊部分の第1部第1篇と第2篇が「準備作業」としての人間存在の分析、未完の第1部第3篇が「本論」としての「存在一般の意味の究明」、未完の第2部が歴史的考察(カント、デカルトアリストテレス)であるとする。本論は第1部第3篇なのだ。第3篇のタイトルは「時間と存在」となっている。
 ハイデガーは挫折した「存在と時間」の哲学を完成すべく何度か大学の講義で取り上げている。講義では「存在と時間」の構成を逆にして、未完だった部分から始めている。その講義でも予定していた構成が最後まで終わらなかった。しかし講義を詳しく参照して、木田元は未完の「存在と時間」の概略を復元することに成功したのだ。これは感動的な仕事だ。


 「存在と時間」第1部の究極の狙いは、

 前にもふれたし、この第5節*の表題(「存在一般の意味の解釈のための地平を打開する作業としての、現存在の存在論的分析論」)からも明らかなように、「存在と時間」の、というより正確にはその第1部全体の究極の狙いは「存在一般の意味」の究明にある。「存在一般の意味」、つまりは〈ある〉ということは一般にどういう意味なのかを究明しようというのである。

*第5節:「存在と時間」の「序論」の第5節。第1部の梗概が書かれている。

 閑話休題木田元が推薦するフッサール現象学の解説。

 フッサール現象学についてのハイデガーの直接の言及、つまりその解説なら、むしろ1925年夏学期のマールブルク大学での講義「時間概念の歴史のためのプロレゴーメナ」(「全集」第20巻)の「準備的部分」(13-184ページ)に見られる。同じ解説にしても、さすがに見事なものである。私の知るかぎり、フッサール現象学の解説としては、ハイデガーのこれと、メルロ=ポンティの「人間の科学と現象学」(「眼と精神」みすず書房、所収)とが双璧である。大哲学者は、解説をさせてもやはりうまい。

 メルロ=ポンティ「眼と精神」とても良い本だ。木田元現象学」「ハイデガーの思想」「偶然性と運命」(いずれも岩波新書)「ハイデガー」「メルロ=ポンティの思想」「哲学と反哲学」(いずれも岩波書店)みな良い本だ。お勧めです。