熊野純彦 編著「日本哲学小史」を読んで

 熊野純彦 編著「日本哲学小史」(中公新書)を読んだ。副題が「近代100年の20篇」。熊野純彦 編著とあるように、半分近い分量の第1部「近代日本哲学の展望」を熊野が書いている。第1部の副題が「『京都学派』を中心として」で、福沢諭吉西周から説き起こして近代日本哲学の通史を熊野が一人で書いている。第2部で20人の哲学者の20篇の哲学論文が取り上げられ、若い研究者たち(?)20人がそれを読み解いている。特徴的なのは取り上げられているのが哲学書(単行本)でなく、哲学論文であること、そして1人の哲学者に新書で8ページが充てられている。
 熊野の語る哲学通史はとても魅力的だ。近代日本哲学史にとても通暁していると思う。本多謙三や加藤正の名前に30年ぶりに触れることができた。個々の哲学者を読み解いて紹介している。だが核心に触れる場面で、さっと引いてしまう。「田邊の論考の詳細について荒谷大輔執筆の一項にゆずりたい。」と。第2部の各論で触れるので熊野は論述するのを避けているのだ。いいところで置いてけぼりにされたようで、それがとても不満だった。
 20篇の各論については、筆者によって当論文の読み解きであったり、その哲学者の学説の紹介であったり、その哲学者が傾倒していた西洋の哲学者の紹介であったりまちまちだ。だいたい8ページで哲学論文を読み解くというのが難しい仕事ではないだろうか。ほとんどの論文が私には難しくてよく読みとれなかった。
 そんな中でダントツに優れていたのは、熊野純彦が担当した廣松渉の「人間存在の共同性の存立構造」だった。廣松の論文をたった8ページで読み解いて、最後にこう結論付ける。

他者が現に存在すること、他者たちと共同的に現に存在してきたことこそが「私」そのものの成立条件である。他者とはつまり、私の存在にとって、それを可能とする存在的ー存在論的な条件にほかならない。

 熊野の論文が見事なのは、熊野があの難解な廣松渉の弟子であったことだ。廣松はきわめて難解な哲学者なので優秀でなければその弟子は勤まらないだろう。その優秀な哲学者が師の論文を読み解いているので、こんな見事な論文が書かれたのだ。
 ほかには馬渕浩二の戸坂潤「空間論」と、佐々木雄大の本多謙三『貨幣の存在論」が良かった。
 熊野純彦は以前、岩波新書の「西洋哲学史−古代から中世へ」「西洋哲学史−近代から現代へ」をたった1人で書いている。それは本当にみごとな仕事だった。しかも嬉しいことに師の廣松渉と違って熊野は難解な用語を多用することがない。「西洋哲学史」の成功を見て、中公新書の編集部が熊野に日本哲学史の執筆を提案したのではないだろうか。しかし西洋哲学ほどには日本哲学を研究していなかった熊野は、若手研究者の協力を得て本書を企画したのではないだろうか。その試みは成功していないように思われる。中公新書ではすでに熊野純彦 編としてやはり若手研究者十数人を擁した「現代哲学の名著」があり、最近その続編である「近代哲学の名著」が出た。どちらもまだ読んでいないが、これを機に読んでみよう。


日本哲学小史 - 近代100年の20篇 (中公新書)

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西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

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