熊野純彦『和辻哲郎』を読む

 熊野純彦和辻哲郎』(岩波新書)を読む。本書は2009年に発行されたが、どこの書店を回っても置いてなかった。しかたなくAmazonで赤線の書き込まれた古書を手に入れた。読み終わってなぜ増刷されないかおぼろげに分かった気がする。一つは和辻哲郎がいま流行らないこと、もう一つは本書の内容が難しいせいだ。新書で取り上げた場合、ふつう読者は入門書を期待するだろう。ところが熊野純彦の『和辻哲郎』は小著ながら本格的な和辻論なのだ。だから人気のある和辻の『古寺巡礼』や『風土』を取り上げるのではなく、主著である『倫理学』や『人間の学としての倫理学』が選ばれている。
 熊野は和辻をていねいに読み解いていく。熊野はあの難解な哲学で知られる廣松渉の弟子なのだ。廣松の弟子であるためにはとりわけ優秀でなければ不可能だろう。だから熊野は和辻を読み解くことができるのだが、それでもまだまだ難解で、私には理解できない箇所が多々あった。分かったところだけでも十分おもしろかったが。
 和辻のカントに関する論攷に対して、「和辻が西洋の哲学者をめぐって主題的なかたちで論じたもののなかでも、おそらくはもっともすぐれた作品である」と評価される。続けて、「誤謬推理論の解釈として、和辻のカント論冒頭のこの議論は、世界的にみて当時、そうとうな水準にある」と言われる。熊野はカントの専門家ではないと言いながら、『カント』(NHK出版)という入門書を書いている。
 和辻は『人間の学としての倫理学』を出版する。ここでマルクスについて言及される。熊野がそのことについて書く。

 和辻は、マルクスのいう存在が、その実質においては「関係」であると見て、内容的には、みずからのいう「間柄」と一致するものであると考えている。さらには、マルクスの説く自然(わけても「歴史化された自然」)のなかに、じぶんが考える「風土」そのものをみとめていたわけである。これは、1934年段階でもっとも卓越したマルクス理解のひとつにほかならない。

 和辻の考える「国家」とは何か、『倫理学』を引きながら熊野が解説する。

 国家とは、あるいは「幻想的共同体」「共同性の幻想的形態」(マルクスエンゲルス)であり、あるいは端的に「共同幻想」(吉本隆明)であるかもしれない。けれども、国家は、それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家とのあいだ、他の国家との対立において形成される。国家という共同性の単位がみずからに幻想を要求するにいたるのは、そのあとのことにすぎない。−−国家は、可能性において戦争への準備を内包させている。〈国家〉とは、可能性における〈戦争への投企〉である。
 さきにみたように、和辻倫理学においてはこうして、戦後の改稿を経た現行本文にあってもなお、「国防」の「人倫的意義」について語られていた。戦前版では、たしかに、ことがらはなおはっきりしている。ふたたび引用する。「国防が国家にとって必須であることは、同時に戦争が国家にとって必至であることを意味する。国家は戦争において形成され、戦争において成育すると言われるが、事実上〈戦争をしない国家〉などというものは、かつて地上に出現したことはないのである」。「国防や戦争の現象」は、一方では、たしかに「国家の閉鎖性」を示している。他方でこの件は、「この現象は国家と国家との間の連関をも端的に示している」のであって、「国家は初めより他の国家に対立せる国家」なのである。
 この認識は、和辻自身のそれとはべつの文脈でも、おそらくあやまりではない。こんにち、マルクスの思考を引きつぎながら柄谷行人が強調しているとおり、商品交換とおなじように、国家も共同体の内部からは誕生しない。国家は、共同体と共同体のあいだに発生する。共同体から国家が生成するようにみえる場合であっても、じっさいには外部に国家がすでに存在し、外部の国家に対して共同体がみずからを国家として形成するのだ。和辻が、戦争という暴力の倫理学的正当化の文脈で語りだした認識は、国家それ自体の暴力性をあかし、それを解除する思考の認識とのかかわり、「回帰の法」(高橋哲哉)を切断する関心においても、読みなおされることができるはずである。そのためには、和辻国家論において、思考がみずからへと「回帰」して、同義反復へと後退してゆく場所そのものが確認される必要がある。

 和辻哲郎について興味が抱かされた。だが、なかなか手強そうだ。むかし若い頃に読んだ『古寺巡礼』や『風土』から読みなおしてみようか。
 ちなみに熊野純彦は、悪評が高かった日本語訳のハイデガー存在と時間』の新訳を一人で岩波文庫から刊行したばかりだ。


和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)