花田伸さんが山本弘展をブログで取り上げてくれた

 画家の花田伸さんがブログでアートギャラリー道玄坂山本弘展を取り上げてていねいに紹介してくれた。
「河」について、

ペインティングナイフ(パレットナイフかもしれない)をぐいぐい押し当て、前の色面と新たな色面が瞬間瞬間に変化して行く。そして筆で削りとるような描画が、荒々しい痕跡を抑える柔らかさを醸し出している。すっと現れた命の有り様かもしれない。

「過疎の村」について、

 「過疎の村」という題名。この言葉に囚われると、右にあるのが電柱ではないだろうか、と想像してしまう。しかし、この中間色には寒々しい過疎というイメージは湧いてこない。とすると、過疎という規定のイメージあるいは固定観念的な情報に囚われることの無意味性をも感じてくる。偶然の表出であろうが、真ん中に見えるのが幼児の顔にも思える。作者の意図とはかけ離れてしまうかもしれないが、私にとってはホッと息をつくことができる静かさを感じる。

「赤いリボン」について、

 なんという早書きだろう。白をグイと一発で決めることで、赤が浮かびあがってくる。この力量は特筆に値する。

坂上」について、

 この黒は、何を意味しているか。画面としては私が好きな構図であり形体がドカンと存在している。抗うことができない現実、それは坂のようなものか、全てを意味論で捉えることを私は拒絶するが、銀の四角は、決然とした意志の存在のような気がする。だからこそ盛り上がっている。

「窓」について、

 これもまたいい作品だ。「窓」と聞けば、それはそれでハハンと理解できるが、それは単に絵図らを理解するだけにすぎない。画面を壊す構図は、おそらく公教育をすんなり受けて育った人にはムズカシイだろう。「窓」ならば、その窓とは一体なんなのだろう。通常の建物の窓、心の窓、などなど「窓」という語の比喩表現は少なくない。窓とは境界にある空間を繋ぐもの。その両界の片側の世界は、作者自身ののっぴきならない現実であるかもしれない。両界が同じであるなら窓は無い。しかし窓があるというのは両界が違うことを指し示している。現実的な建造物でもそうである。作者は、このことを身に沁みて感じていたのではないかだろうか。「岡本太郎の赤は鮮血の赤」というが、この作家の赤は自らの血の比喩であるのかもしれない。この絵を凝視してみる。家の中が自分自身の現実であり、真っ赤なのだと同時に、家の外も真っ赤だ。だとすると、この白い空間はなんなのだろう。向こうにある異界?望み?憧れ?悔恨?

「灰色の家」について、

 「灰色の家」という題名があると、それに沿って作品を理解しようとする。絵と題名の関係。画家にとって題名の重要性はなんだろうと考えはじめて久しい。「絵には題名があるものだ」確かにこの考えは世の中では共有している事実だ。小説・音楽・絵などなど、必ず題名がある。もちろん「無題」とか「失題」という題もある。他のものと分けて、それを確認するものなのだろうか。
 花を描いて、「花」と名付け、海を描いて「海」と名付ける。作品に語を付すことによって、その作品がいま目の前になくても、「山本弘の『灰色の家』という作品なんだけど」「あっあの五角形の絵ね」「そうそう、それなんだけど」なんて会話がなされることもある。題名は作品を示す語としてとても便利だ。しかし作家は、「家」と名付けるのではなく、「灰色の家」と形容詞をつける。その画家の意志だ。私の個人的な妄想だが、「題名とはどうあるべきか」というのが気になって仕方がない。なぜなら題名によって、作品の見え方が違ってくるからだ。逆に手がかりにもなる。しかし、作品世界を作家自身が枠付けしてしまうことになりはしないだろうか。こんなことを言っていると、多くの作家たちに失笑されるかもしれないが、「題名の文学性」ということもある。以前「Untitled」という題を付けて、「またか、なんだか分かんない」と言われたことがある。人は作品理解のために言葉を必要とするし、思考するということは言語活動でもある。「付けると、なんでこんな題なのだと言われ、付けないとなんで付けないんだと言われる。」この妄想に帰着点がない。グダグダと余談になってしまった。
 もとにもどる。画面の五角形は、数学としての意味もあり、象徴記号の意味もある。しかし、作家は家と名付けた。それも「灰色」と。たしかに灰色である。しかし、これは灰色で描いたから「灰色」と理解するのでは単純すぎる。「灰色の家」という言葉で、すでに見る者は、ある共通のイメージが湧き上がってくる。そしてその絵を読み解こうとする。よく見てみると、灰色の中に家を包むように、やわらかいベージュの色がある。陰鬱なばかりの家ではなさそうにも思える。希望への比喩か、どうしてこの題なのだろうか。

「沼辺」について、

 「沼」とは作者にとって何か意味するものがあるのだろうか。作家論として、詳細に人生をたどってみると沼につきあたるのかもしれない。沼についての神話的物語もあるからだ。古来日本の文芸の世界、あるいは地方の農村での個人的な体験などなど。文学的な見方に過ぎるかもしれない。では画面としてはどうなのだ。濁った色のなかに緑の線が見える。上には雲のような明るいグレーがある。図としては風景の一部を示していると見ることは確かにできると感じる。バランスはいい。抽象と具象の際にいる。

「ピエロ」について、

「ピエロ」たしかにピエロにみえる。どこで判断できるか、鼻が赤く丸いからだ。その他では判断できない。赤鼻がないと、かろうじて人物であるだろうとは理解できる。曽根原さんが言うには、作者はスーチンが好きだったと。たしかにスーチンの影響は感じられる。この絵は力強い。物語性よりも造形性が際立っている。この人物の処理の仕方、筆のさばきかた。ナイフの使い方。みごと過ぎて、この絵の前に立つと自我などは打ち壊されてしまう。疑問がひとつ、なぜ(ピエロ)と括弧付きなのだろう。「ピエロだけれど、これはあなた自身ですよ」と語りかけているのだろうか。

 ピエロに括弧をつけたのは、山本弘が付けたはずの題が不明なので私が仮に付けたからです。
「土蔵」について、

 「土蔵」潔い作品だ。これも土蔵と言われれば、土蔵とみるしかない。生活の近辺に土蔵があったのだろうが、それを画題として選ぶ作家自身の意味がある。そしてそれは作家によって同じ土蔵を描いたとしても一様ではない。このアンバランスな形体は実際の土蔵がこのような形をしてたからなのか、しかしこのような描き方ならば作家自身が自由に形を変えてしかるべきである。では、この形体は作家自身がこだわったものなのか。現地で確認すればとりあえずの確認はできるだろうと思うが、いまあるかどうかはわからない。しかし、自由な表現だ。おそらく土蔵という何かにこだわっているのだろう。

 最後に総括するような言葉が並ぶ。

 不思議に作品を見ていると、作者の深層心理まで降りて行く自分が感じられる。そこは、作者の内面にある深い井戸なのかもしれない。ひょっとしたらそこは底なしだ。私は勝手にそこに縄梯を下ろして降りてみる。曽根原さんが誰かに作者の人となりを説明している。ときどきそれが耳に届いてくる。「生前まったく売れなかった、そして酒浸りの生活。地元飯田町では軽蔑される存在。」そのような芸術家たちは少なくはない。私の故郷青森でも太宰治は「かまど返し」といわれていた。幼いころよくそんな話を聞いた。家の財産を食い荒らし、不良の限りを尽くす。かまど返し。釜戸をひっくり返す。棟方志功は役場のお茶汲みで、ズボンは縄バンドで縛っていた。寺山修司は無視。地元はなかなか異端を認めない。日本の文化意識もそうかもしれない。海外で評価されてはじめて認めるのはよくある。最後は自死というこの作家、文学的に評すれば無頼派ということになるだろうが、この作品の持つ凄みは時代を超えている。(後略)

 花田さん、ありがとうございました。花田さんのブログを読みながら涙が沸き上がってきた。故郷で誰からも理解されず自死を選んだ山本に、あれから40年近く経って遠い東京で徐々にではあるが理解してくれる人たちが現れてきた。30年ほど前銀座の大八木画廊で飯田市の画家が個展をしていたので挨拶して、私は山本弘の弟子でしたと自己紹介し、そのことを後日山本未亡人に報告したとき、「よしな、そんなことをすると馬鹿にされるだけだに」と言われたことがあった。未亡人がそう考えるほど、そんなにも飯田市民の山本弘への軽蔑が強かったことが想像された。
 それにしても驚くのは、周囲の誰からも全く理解されることのない環境で、誰からも評価されることのない世界で、ひとり黙々と制作を続けた山本の強さだ。あなたは自分の絵がいつか必ず理解され評価されることを知っていたんですね。


・花田伸さんのブログはこちらになる。
https://utakata-sh.blogspot.com/