来る6月15日は山本弘生誕92年の誕生日になる。これを機に山本弘の絵画の特質について書いてみたい。
山本弘の絵画を理解するキーワードは3つある。「アル中」「アンフォルメル」「象徴派」だ。まず、アル中について。山本弘は15歳で終戦を体験し、それまでの軍国少年だった価値観が全否定された。初めヒロポン中毒に走り、ついでアルコール中毒に転じた。アル中は生涯続き山本を苦しめた。30代始めと40代始めの2回、アル中による脳血栓を患った。その結果手足と口が不自由になった。それまで流麗な線を描いていたのに、殴りつけるような線しか描けなくなった。絵が変わった。それまでの、先輩からお前は筆が走り過ぎると言われていた達者な絵が描けなくなった。その手が不自由になってから、山本弘の独特の優れた絵が始まった。
ついで、アンフォルメル。山本弘は、最初私が会った時、好きな画家はモジリアニ、スーチン、長谷川利行、ゴッホなどと言っていた。確かにモジリアニ張りの顔の細長い女性像や、スーチンを思わせる作品も描いていた。長谷川利行のモチーフをなぞったような黄色い顔の女とか、利行に触発されたような作品も多く見られた。そのころ、抽象には熱い抽象と冷たい抽象があるが僕は熱い抽象だとか、僕はタッシスムだとか言っていた。アンフォルメルという言葉は使ったことがなかったが、どちらもアンフォルメルの用語だ。さらに晩年の作品は中央に描かれた人物の顔を厚塗りし、周囲の絵具は薄く、塗り残しも目立った。これはフォートリエの作品「人質の首」を思わせる。フォートリエのこの作品はブリジストン美術館(現アーチザン美術館)が所蔵していて、『芸術新潮』に何度も紹介されていた。飯田市立図書館に勤めていた司書の方が、山本さんはよく『芸術新潮』を見ていたと話してくれた。また、山本弘の「塀」という作品には白い板塀が描かれているが、板塀の下端には子供の落書きが描かれている。これはアンフォルメルの画家デュビュッフェを思わせる。
最後に象徴派。山本弘に「銀杏」という作品がある。私が推測するに、これは奥村土牛の『醍醐』の構図を引用したものに違いない。土牛は『醍醐』で華麗な醍醐寺の満開の桜を描いたが、それを引用して山本弘は、自分の生涯に華やかなものは全くない、夜の公園の一角に立つ地味な銀杏のようだったと考えたのだろう。しかし、その銀杏はどっしりと力強く立ち圧倒的な存在感を示している。
また「流木」という作品がある。これは濁流を流れる白い流木が、血の河のような世間を流された儚い自分だったと顧みているかのようだ。作品を描きあげた時、8歳だった娘にどう思うかと聞いた。娘が血の海みたいできれいだと答えたら、ものすごく嬉しそうな顔をしたという。自分の意図が理解されたと思ったのだろう。
「窓」という作品がある。画面の右端に人が立っていて、夕暮れの明るい窓を見つめているかのようだ。しばしば荒れて家庭を顧みなかった山本弘が、一方穏やかで明るい家庭を憧憬していたかのようだ。
このように山本弘は自分の生活や思いをテーマに作品を作っている。象徴派と呼ぶ所以である。
また、山本弘は早描きだった。それは山本が描きながら作品を作るタイプではなく、描く前にすでに頭の中に作品が出来あがっていたと思われるからだ。山本に「黒い丘」という作品がある。作品の左端の真ん中に四角いベージュの窓が描かれている。この窓は作品にとって重要で、窓を隠すと作品が変わってしまう。ところがこの窓は黒い絵具の上に描き加えられたものではなく、ベージュは下に塗られており、黒い絵具は窓を塗り残して描かれている。つまり、黒い絵具を塗るときに、すでに全体の造形が見えていたのだろう。
このように山本弘はすでに頭の中にある造形をキャンバスに写しただけなので、早描きだったのだ。最晩年の数年間で400点の油彩作品を描いたのは、このためだった。