なぜ山本弘は絵にし難いモチーフを描いたのか?

 山本弘は不思議な世界を描いている。そのことを8月に開く山本弘展のちらしに書いた。

山本弘はふつう絵に描きにくいものをしばしば描いている。霧そのもの(「種畜場」)や、降る雪(「雪の三叉路」)、降る雨(「秋雨」、「街の雨」、「水神」)、小枝を束ねた柴垣(「芝塀」)など。本来、絵にしがたいモチーフを選んで作品として成功させている。その強引とも言える造形力、非凡な創作力をぜひ見てください。

 すると、友人から「なぜ山本弘は絵になりにくいモチーフに挑み、かくも表現できるのか、曽根原さんの考えを結論部分で聞きたい」とコメントが付けられた。答えられなかった。私にも分からなかった。
 しかし、こんな風に問題を提起されると、脳は意識下で考えるのだろう。不意に思いついたことがある。絵に描きにくい形を描いている、と言い換えたとき、それは不定形のことだと気がついた。不定形とはアンフォルメルだ。1992年に針生一郎さんが飯田市山本弘未亡人宅を訪ねて残された作品をすべて見られたとき、ある作品を手に、この人はどこでフォートリエを学んだのだろうと呟いた。私はそれまでフォートリエの名前を知らなかった。後日フォートリエを調べて、アンフォルメル運動を主導した画家だと知った。そこで山本弘の作品を振り返ると、針生さんがフォートリエを連想した作品はどれだったか分かった。1点だけフォートリエに通じる作品を描いていた。
 東邦画廊での山本弘展の第1回目に飯田市から見に来てくれて作品を買ってくれた女性がいた。飯田市立図書館で長く司書をしていたという人だった。その時、山本さんはよく図書館に来て『芸術新潮』を見ていましたと教えてくれた。すると、山本は『芸術新潮』でフォートリエを知ったのに違いない。器用な山本はフォートリエ風の作品を1点だけ描いてみたが、安易にその風潮に染まることはなかった。
 以前、池田龍雄さんが講演で、読売アンデパンダンが終了したのは、日本にアンフォルメルが伝えられて、アンデパンダン展に大量にアンフォルメル風の作品が寄せられたからだと話したことがあった。アンフォルメル風の作品は素人でも簡単に描けそうなスタイルで、だからほとんどがクズなのだった。
 山本はアンフォルメルから「不定形」という概念を学んだのに違いない。不定形の作品を描いてみようと考えたのではないか。アンフォルメルとは違う、形のないものを描いてみようと思ったのではないだろうか。それが霧そのものであったり、降る雪や雨であったり、なだれとか柴垣とかだったのではないか。
 こうして世界の誰とも違った山本弘の作品が生まれたのではないだろうか。
 山本が生きていて、私のこの意見を知ったら「生意気言うな」と怒鳴ったに違いない。昔上京してきてすぐの頃、竹橋の美術館でマグリット展か何かシュールレアリスムの展覧会を見たあと、常設展で富岡鉄斎の「青緑山水図」という屏風を見た。それに感激し、山本に鉄斎はヨーロッパのシュールより素晴らしいと手紙を書いた。山本からは葉書に大きな字でひと言、「生意気言うな」と返事をもらったことがあった。50年経っても私の生意気は治りません。