先日、山本弘に対する私の評価を書いた。今回は客観的な評価を紹介したい。まず美術評論家の針生一郎の言葉。
むろん芸術家の生活がどんな内的苦悩にみちていようとも、作品はそれじたいで評価されるほかはない。だからわたしたちは作品を見る前にどんな成算もあったわけではないが、1点1点みせてもらいながら、しばしば目をみはり、何度も感嘆の声をあげた。初期の暗鬱な色調をもつ写実的な画風から、しだいに形態の単純化と色彩の対照による内面の表出へと転換する。とりわけ注目されるのは、生活が荒廃しても、体力が衰えても、絵画の質の高さは失われないことである。晩年はむしろ、非具象ともいえる奔放な筆触と色塊のせめぎあいのうちに、極限まで凝縮されたイメージがあらわれる瞬間をとらえようとしている。(中略)
そして作品を実地に見れば、この画家の骨身を削るような孤独な苦悩が、つねに感覚を新鮮に、自由に保ちながら、生の意味を手ごたえのたしかな造形のうちに定着することに向けられていたことがわかる。それは金と物に支配されて生の意味を見失いがちな人びとに、芸術家の表現の原点に固執した必死の探求の貴重さを思い知らせる点で、まさに今日的なのだ。
飯田市の山本弘未亡人宅を訪れた針生は、山本の遺作400点を上記のように1点1点ていねいに見てくれた。そしてときに、「これは松本俊介より良い」「香月泰男より良い」と声を弾ませた。ある講演会で針生は、戦後の日本の画家では、松本俊介と鶴岡政男、麻生三郎を最も評価すると話された。その松本俊介より良いとまで言われたのだった。
美術評論家の瀬木慎一は兜屋画廊での山本弘展に来られた折り、同じ画廊で次回に予定されている放浪の画家村上肥出夫に触れて、村上は俗だけれど、あんたの先生の芸術はこんなに高いよと手を頭上に高く上げられた。
数年前に亡くなったギャラリー汲美のオーナー磯良卓司は、同ギャラリーで山本の個展を開いた折り、「山本先生は美術史に残る方ですね」と言われた。そして個展で展示した山本の作品「川」について、これはベートーヴェンですね、と。その作品こそ私がもっとも好きなものだ。
井関能夫は公明新聞に書いた展評で「結果的に、異端の画家とされる小山田二郎と作風、生きざまの面で相通じる点があることが縁となって世に出てきたということになるが、フォルムはともかくとして、あくまで自然そのまま、自らに正直に生きようと葛藤した者にして初めて生み出されるのではと思わせる深い色調による作品群は、身は侵されても心は侵されずという作家自らの〈魂の叫び〉をうかがわせるに十分である」と。
ワシオトシヒコも公明新聞に書いている。「生活者として破滅の下り坂を駆け下りる一方、画家としては、賢明に生きた。持ち前の鋭い感覚で、海老原喜之助、山口薫、脇田和といった戦後を代表する俊英たちのエッセンスをたちどころに消化しつつ、彼なりの造形の極みを探り出そうとしていたように思われる。/決して安易に感傷に溺れることなく、どこまでも、全身に知情意を内包しながら、男くささを発散させる油彩に対し、素描は一見やさしげだ。だが熟視すると、どの線も意志的で、力強い。とりわけ裸婦について述べると、曲線以上に直線を重視し、きわめてデフォルメが大胆だ。そのくせ、画面全体の空間性を壊さない、特異な線の運動となっている」。
またワシオは山本弘の「箱」という作品に対して、雑誌『Bien』に次のように書いた。
17世紀オランダのフランス・ハルスは、デッサンをほとんどしなかったようだ。いきなりカンヴァスへ向かうことが多かったらしい。1976(昭和51)年に制作された山本弘のこの油彩作品も同様、眼前の獲物を狙い定めて生け捕る。まるでハンターのように、生動感溢れるタッチで。一気呵成に、重層的に速描されている。荒々しい息づかいの描線が、生々しい。身辺の箱を対象としながらも、画家の絵筆にかかると、たちまち箱が単なる箱でなくなる。擬人化されたような有機物体に変容する。観る者のやわな感性を波立たせる。
たしかに山本はデッサンをほとんどすることなく、いきなりカンヴァスに向かって一気呵成に速描していた。
『芸術新潮』にはおそらく編集者が匿名で書いている。「長野県の飯田をほとんどはなれることなく、中央の画壇に知られることなく無頼の生をつらぬいた画家・山本弘('30〜'81)の遺作展である。36歳で結婚するが、生活は変わらず酒びたりの日々。吐血、脳血栓の末、手足も不自由に。右の自画像(写真)はそのころ描いたもの。だが制作意欲は衰えず、画風も変わった。それまでの暗鬱なリアリズムからここに挙げたような色の美しい抽象へ。「やる事なす事失敗だが、ゑだけはそうでありたくない」。しかし結局、最後は自宅で首を吊って死ぬ。画家にとってはすべてが「失敗」だったのか」。
伊藤正大は信濃毎日新聞に書いていた。「学生のころに描いたという飯田周辺の風景画や、デッサン力抜群の素描の自画像。女性を描いた都会的で明るい水彩や素描。その一方で、口をへの字に結んだ男の顔を画面いっぱいに描いた「村芝居」や、二本の木を擬人化した「木」、抽象化され、輝くような色彩を放つ「沼」などー。彼の作品は、形態の単純化から晩年は抽象に向かっていった。/人けのない飯田市美術博物館の収蔵庫で、そんな内面描写の激しい山本の作品と対峙しながら、この人はなぜ、酒におぼれ、死の誘惑に負けたのであろうかと考えていた。目の前に、妻を描いた油彩の小品「愛子」があった。モデルに寄せる作家の細やかな愛情が感じられる、限りなく美しい肖像画だった」。
赤旗新聞にも記者が匿名で書いていた。「チューブから出したばかりのような絵の具が盛り上がる画面は、中間色の淡さがありながら野獣派的な激情を発散させています。(中略)悲惨なその人生を思うと、赤と黒を基調にした「土の男」などの人物からは自己へのでき愛や嫌悪に彩られた苦悩が、緑の風景の上にほとんど全面に厚い白を乗せてしまった風景などからは郷愁が、荒々しい余いんで伝わってきます」。
産経新聞にも匿名Mという署名で展評が載った。「主たる発表の舞台は、東京都美術館での日本アンデパンダン展だった。40歳を過ぎて、具象的な表現を離れ、内面の心象を抽象的に画面に刻印するようになった。そして、画家の遺した画面は無頼とも荒廃とも無縁だ。常に死と隣り合わせながら、みずみずしい詩魂を保ち続けたのだろう。青のたゆたいの中に、詩魂のふるえのような線が走る。魂の火花が散るかのような清冽な画面である」。
著名ブロガーにして厳しい美術評を書く田代人士の山本弘評。
山本弘の中には二人の指向の異なる絵描きがいたようです。一人は専ら達者に走る筆で巧く軽く描こうとし、いま一人は景やものの朴訥な実在感をそのまま体現しようとする。
両者の相反する試行は、一人の画家山本弘の大成を露骨に阻んだ半面、彼が取り組んでいた写実主義絵画の枠組みを溶解させ、その仕事を現代美術の方向へ大きくシフトさせました。時にアンフォルメルを時に抽象派を、また時には表現主義を思わせる山本弘の仕事は、そうした美術の諸潮流からの直接の影響ではなく、全くのオリジナルで、言わば現代美術史を信州の地でたった一人でやり直す勢いで零から進化したもので、その作品は、そうした急進化に一人の人間の肉体が遂に堪えられなかった栄誉ある未完成の美に輝いています。
画家の奥村欣央は個人で発行している雑誌に山本弘について書いた。「今回はじめて実作品をみたがすごい絵ばかりだ。山本弘にはたしかな空間認識と造形言語がありこれはたまたま描けた絵ではなく、本人が一番確信していたはず。」
山本弘は私の生涯の師だ。そのことを誇らしく思う。