今日は山本弘33回忌

 今日7月15日は山本弘の33回忌だ。山本は1981年のこの日に亡くなった。51歳だった。生きていれば83歳ということになる。
 1930年6月15日、長野県神稲(くましろ)村(現豊丘村)に生まれ、幼い時に長野県飯田市へ転居した。終戦の年に15歳だった。戦後ヒロポン中毒に苦しみながら絵を描き続け、1948年、造形美術学校(旧帝国美術学校、現武蔵野美術大学)へ入学する。おそらく授業料が払えなくて退学。その後滝川太郎に弟子入りし、書生として住みこむが、滝川の人使いが荒いと逃げ出す。滝川は贋作で有名な画家で、『芸術新潮』でも2回特集されているほど。
 高円寺あたりの中央線沿線に住み、1955年の私立菊華女子高等学校で開かれた第1回杉並美術展に油彩を1点出品している。その時の作品目録には他に画家の池田龍雄小山田二郎・チカエらの名前もある。
 その後故郷の飯田市へ戻り、山仕事や代用教員などをしながら絵を描いている。すでにヒロポンはやめたものの、酒にのめり込み、アルコール中毒となっていた。何度も自殺を試みたが奇跡的に生き返り、アンデパンダン展などへの出品を続けている。飯田市では個展を開いていたものの、それ以外の地での個展は亡くなるまで一度もなかった。
 36歳で11歳年下の愛子と結婚したが、その前後に脳血栓となり、以来言語障害と手足の不自由が一生ついてまわった。手が不自由になり、それまでの繊細な線はもう描けなくなったが、それから山本の絵が生まれた。1981年に亡くなるまでのほぼ10年間足らずが、作品としては山本弘の豊穣の期間とといえる。51歳で亡くなったため40代が晩年となるが、制作面からは豊かな晩年と言えるだろう。実生活ではアル中に苦しみ、その治療のため1年間入院した直後に自死を選んだことからも、決して幸福な人生ではなかったかもしれない。
 ただ41歳のとき娘「湘(しょう)」が生まれ、子煩悩のところは一般の父親と変わることはなかったし、自分の作品については終始強い自負を持っていた。そういう意味では不幸な一生ではなかったのではないか。
 亡くなってから10年ほど経って、美術評論家針生一郎に認められ、京橋の東邦画廊をはじめ、銀座の兜屋画廊、77ギャラリー、六本木のギャラリーMoMo、京橋のギャラリー汲美、戸村美術、ギャラリーゴトウなどで個展が開かれた。読売新聞に大きく取り上げられ、芸術新潮やさまざまな雑誌新聞に紹介された。全く無名のまま亡くなった山本弘だったが、そのような日が来ることを信じていたに違いない。

 ここに掲げた作品は、1968年頃山本弘が描いた19歳の私で、現在飯田市美術博物館に収蔵されている。当時2浪が決まってゾンビだった私を正確に描いている。写真は昨年同館での常設に並べられた折り、美術館の許可を得て娘の湘ちゃんに撮ってもらったもの。44年ぶりの自分とのツーショットだった。


「無頼の画家 山本弘の現代性」(2006年10月9日)
帰燕せつなき高さ飛ぶ(2006年6月29日)
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