馬場あき子『日本の恋の歌〜恋する黒髪〜』(角川学芸出版)を読む。これは月刊誌『短歌』に70回に渡って連載されたものを、本書と『日本の恋の歌〜貴公子たちの恋〜』の2冊に分けて刊行したもの。本書では、「和泉式部の恋と歌」「実方の優雅な恋」「紫式部の恋・『源氏物語』の恋」「『後拾遺集』の恋」「題詠の恋」「内向する中世の恋」の6章に分けている。
1章をあてられているだけあって、和泉式部の歌にも生活にも著者は好意的だ。和泉式部の歌を引き、それに関連する歌とその歌人について書いている。すべてが逐語訳されているわけではないので、理解するにも限界があるが、当時の男女の心が偲ばれる。
第5章「題詠の恋」から、
鳥羽院の中宮待賢門院璋子に仕えた加賀という女房は、ある日誰という当てどころもなく、つまり、まだ恋もしていないのに、恋する男から忘れられ、棄てられた嘆きの歌を作ってしまった。
こうした場合、この歌を提出するのにちょうどの歌合が催されるのを待つということもあろうが、加賀はまだ若く、歌人としての名も知られておらず、歌合に招かれるほどの立場ではなかったのであろう。加賀はしかし、この歌を世に出したかったのだ。その歌、
かねてより思ひし事ぞふし柴のこるばかりなる歎きせむとは 待賢門院加賀
(はじめからこの恋については予感していたことなのです。ふし柴を樵(こ)るという言葉のように、懲(こ)りごりするほどの、忘れ去られた女の歎きをするだろうことになるとは)
歌としては、今までみてきた巧者の歌に比べてややぎこちなさがあり、観念的だ。技法も掛詞がわずらわしくみえる。しかし、これが題詠としてではなく、恋の具体をもち、そしてのち忘れられた女の歎きとして、男のもとに届けられたとしたらどうであろう。歌合に招かれる立場にない加賀はその時の効果に賭けてみようとしたのだ。
加賀が恋の相手として選んだのは、大胆にも時の一の人、後三条天皇の第三皇子で賜姓の源氏、従一位左大臣源有仁である。望んだからといってなかなか近づける人ではない。しかし、待賢門院という社交的舞台にチャンスがなかったはずはなく、みごとに顕貴の人有仁に接近し、そしてその愛人の一人となった。有仁は詩歌・管弦にもすぐれ、優雅な性情でもあったのだろう。しかし、その身辺は公私ともに繁忙であったはずで、加賀ははじめの思わくどおり有仁から忘れられてゆく。その時、予定どおりにこの歌を贈ったのである。
(中略)この加賀の逸話を伝えた歌書はひじょうに多く、加賀は高名の歌人のように「伏柴の加賀」とまでよばれるようになる。歌合に勝利を得たわけでもなく、加賀の若き日の無題の恋の歌一首は、自らの歌に合わせた不運な恋の人生を歩むことによって今日に残った。たしかに加賀と有仁との身分差は、いずれこうなる運命だったとしても、歌人とはすごいものである。
まさに歌人とはすごいものだ。
つぎに式子内親王の歌について、
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
「玉の緒よ」と自らの命に対(む)けて呼びかけ、「絶えなば絶えね」(絶えるなら絶えてしまえ)と命令形で断固言いわたすあたりの強さは無類だが、このいさぎよいまでの二句切れのあと、下句はしだいに呟くような「あはれ」の表情を湛えたおさめ方になってゆく。上句の激情に対して「ながらへ」たなら、「忍ぶること」は不可能になってゆくだろうとうたいおさめる。それはつまり「死」である。はじめに「ながらへば」から読みすすめ、「玉の緒よ」に戻ってゆく読み方でいけば意味は簡潔だ。だが、歌は意味だけを伝えればいいものではない。短いセンテンスにこめた激情に対して「ながらへば」という仮定形の、躊躇をこめた一句を置くことによって、マイナーな激情に接近するゆとりを読者に与えている。(後略)
本書1冊がすべてこのように明確に語られてゆく。
さて、時代が下るとともに、歌も技巧にはしってゆく。馬場はそうは言っていないが、いわば歌のマニエリスムといったところだろう。そんな風に、表現はやがてマニエリスムに至るのかもしれない。戦後フランスで流行したヌーヴォー・ロマンも小説のマニエリスムだろうし、ポスト・モダンの建築もマニエリスムと言っていいのかもしれない。この辺りのことは私の独創ではなくて、大昔読んだ日向あき子の『ポップ・マニエリスムの画家たち』(パルコ出版)の翻案だと思う。
多くの歌人の恋に苦しむ姿を眺めていると、それが人間の常態だと納得され、己の悩みもいつか相対化されているような気がする。どんな悩みだ?
馬場あき子といえば、私にとっては次のが代表歌となっている。
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
60年安保の運動に敗れた体験と、怨念を抱いた女が鬼になるという『鬼の研究』を踏まえた馬場の短歌だ。
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