『男子の貞操』を読んで

 坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)を読む。副題が「僕らの性は、僕らが語る」というもの。題名から想像される内容とは全く異なり、きわめてまじめで重要なことを言っている。著者紹介を見ると1981年生まれでとても若い。内容から経験豊富な中年男性かと思ったほど。
 坂爪は「新しい「性の公共」をつくる、という理念の下、重度身体障碍者に対する射精介助サービス、バリアフリーのヌードデッサン会の開催、性風俗産業の社会化を目指す「セックスワーク・サミット」の主宰など、新しい切り口で、社会の性問題の解決に挑戦している」という。
 まず坂爪が主張するのは、僕らの性が記号に支配されているということ。自慰行為の促進剤として使用している性的な画像・動画・文章等を分析すると、ある特定の条件を満たした女性の裸体にのみ性的な興奮を覚えている。例えば「女子高生」「人妻」「20代」「巨乳」「ロリ顔」「ヘアヌード」「無修正」「素人」などなど。これらを記号と呼ぶ。
 その記号の母体は、なんと「お上」だという。お上すなわち国家権力が「わいせつ物」と「そうでないもの」の線引きを行い、その基準に従ったり反発する形で民間企業や個人が性に関する商品やサービスを作り出すという構造になっている。お上の規制によって記号が性的興奮を覚えさせることになる。
 そういわれれば何十年も昔、女性のアンダーヘアがひりつくほどエロティックだったのに、解禁されてからはただの毛に変わってしまったという経験を思い出す。すべてお上の「見えざる手」によって「僕らの性がコントロールされて」いるのだった。
 女性の裸体そのものに価値が置かれるようになったのは、明治以降西洋化の影響で、政府が裸体風俗を禁止したからだった。江戸時代までの日本人には裸が恥ずかしいという意識自体がなかった。裸体価値の歴史を知ると、裸そのものに本質的な価値や魅力は無く、実は自然の女性の裸体(naked)そのものに興奮しているのではなく、記号的・社会的な意味づけが施された人工的なヌード(nude)を見て興奮しているのだった。
 インターネットの普及により天文学的な数のポルノ画像・動画が無料で流通するようになり、ヌードの商品価値はほとんどゼロにまで低下した。坂爪は世の中にあふれている裸を「ジャンクフード」ならぬ「ジャンクヌード」だという。ジャンクヌードとは、社会性がなく、撮影後に使い捨てられる女性がたくさん出る、誰の記憶にも残らないヌードを指すという。そして記号にまみれたジャンクヌードの世界から卒業するためには、生身の女性の裸体を時間をかけてきちんと見ることだという。
 坂爪は一見当たり前のことを言う。セックスの目的は、お互いが身体的・精神的に気持ちよくなることを通して、相手を性的に認め合い、信頼関係を深め合うことにある。一言で言えば「絆をつくること」だと。
 また人間の身体の一番の性感帯は「皮膚」、「全身の皮膚」だという。スキンシップがセックスの中心だと主張する。これこそ目からうろこだった。
 私は年齢相応に多くも少なくもない経験を重ねているが、教えられることがとても多かった。題名から想像される内容とは全く違って、まじめで優れた内容の本だった。若い男性の必読書といってもいいかもしれない。