加藤周一+池田満寿夫『エロスの美学』を読む

 加藤周一池田満寿夫『エロスの美学』(朝日出版社)を読む。「比較文化講義」というシリーズの1冊で、二人がエロスをテーマに対談をしている。日本でトップクラスの評論家と、エロチックな版画を作り、エロ小説も書いている作家という組み合わせは「エロス」をテーマにした対談としては最強に思えるのだった。どこにも書かれていないが、おそらく企画したのは松岡正剛だろう。しかし本書に関してはこの目論見は失敗している。もっとも発行されたのはもう36年も前の1981年だ。いろいろと古びてしまっているのかもしれない。
 池田はエロチックな版画を作っていた。だからと言ってエロスについて語ることを持っていたことにはならない。加藤は一休を主題にした小説を書いているし、そこには盲目の森女と性愛に溺れる一休が描かれている。そのような点からもエロスを語るにふさわしいと考えられたのだろう。しかし、池田は単にスケベな作家に過ぎないし、加藤はエロスを話題にしてもその優れた教養から、すぐ文化一般や哲学などの方向にそれていってしまう。二人の対談はエロスの方向に深まってはいかない。最後にクリムトエゴン・シーレに関する話題がおもしろかった。

池田満寿夫  ぼくらはやはりヌードではなくて、ネイクドの方に惹かれるんです。ぼくがやっている裸の絵は、衣装を剥ぎ取ったというところから出発してる。クリムトはヌードとネイクドとの境にいる画家ですね。そしてネイクドには扇情的なものを挑発する要素があると思うんです。ところがシーレになると、ネイクドの方が断然強くなる。女がパっと投げ出されて、なにかいかにも剥ぎ取られた状態を寒々と表現している。狂気が現れています。そのへんから裸体画の流れが違うのではないかと思う。それ以降の裸体は、全部ネイクドですね。表現派になってくると、ますますそれが強くなってくる。剥ぎ取った上でさらに裸を痛めつけ、破壊寸前まで歪めてしまう。
 いまいわゆるヌードというのは、写真の方にいってる。絵画はもうそこから離れたということですね。
加藤周一  それは人間に対する絶望を表しているのかな。少なくともペシミズムだな。
池田  一種のペシミズムでしょう。
加藤  ベルナール・ビュッフェの裸は、「女に限らずみなダボハゼみたいだ」と、寺田透が言っていたけれど、あれなども体全体が大変醜い苦しさみたいなものを表してる。拷問の時代だな。
池田  そうですね。裸は称賛の対象ではなく貧しさや苦痛の対象になっている。いろいろな意味で絵画では美女は存在しなくなったとも言えます。ぼくがいちばん惹かれるヌードは、デ・クーニングなんですよ。
加藤  デ・クーニングがそのいい例ですね。
池田  ぼくはあそこから強烈な影響を受けたわけですが、そこでは、ヌードをセックスをむきだしにした苦痛とも歓喜とも区別しにくいエクスタシーの状態としてとらえている。
加藤  フランシス・ベーコンなどひどいものですね。あれは苦悩というか、ほとんど拷問ですね。

 池田に限っていえば、エロス論なんかじゃなくて、絵画論とか美術論を語らせれば面白かっただろう。