三浦雅士『漱石』に圧倒される

 三浦雅士漱石』(岩波新書)を読み、その卓抜な漱石論に圧倒される。副題が「母に愛されなかった子」といい、漱石をそのような人間だったと洞察して、その前提から漱石の全作品を読み解いている。その圧倒的な分析にただ驚嘆するしかない。三浦は腑分けをするように漱石の心を、その隅々まで明らかにしてしまう。見事なものだ。
 漱石の心が三浦によって裸になったからと言って、三浦は漱石を見下すことはない。

(……)初期三部作(『三四郎』『それから』『門』)の潜在的主題は、繰り返しますが、愛されていることに気づかない罪です。これはまた、愛していることに気づかない罪でもあります。このことを描いて『それから』ほどすぐれた作品はない。
『それから』はまったく神技とでも言うほかない作品です。不必要な細部が一箇所もない完璧な作品を見ていると、そう形容するほかない気がします。

 『坊ちゃん』には、おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかり贔屓にしていた、という台詞がある。そういう母へのこだわりが、逆にその正反対ともいえる清という下女のイメージをかたちづくった。
 漱石は生まれ落ちると間もなく里子に出された。里親は貧しい古道具屋で、その道具屋のガラクタと一緒に、小さい笊(ざる)の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店にさらされていた。やがてその古道具屋から取り戻されるが、すぐに新たな家に養子に出される。その養父が女を作って養父母が別れ、漱石は実家に戻される。漱石が復籍するのは大学にはいってからで、それまでは姓も夏目でなく塩原だった。
 『吾輩は猫である』も捨て猫という設定だ。さらに三浦は、『吾輩は猫である』の重要な主題のひとつが自殺だという。
 『虞美人草』は母に愛されなかった子が主題だ。これは母に愛されなかった子の復讐劇なのだと三浦は書く。漱石永遠の女性は大塚楠緒子であるとか、嫂の登世であるとか、諸説あるが、いずれも正しいと思われるのは、それらがみな、畢竟、母に帰着するからであると。
 後期三部作『彼岸過迄』『行人』『心』が分析され、『心』が漱石のひとつの到達点であることは疑いありませんという。また、

『道草』において、漱石は、母に愛されなかった子という主題から初めて自由になった、とりわけ細君に向けて発動される自身の心の癖を描き切ることによって自由になったのだ、そう思わせます。漱石晩年の境地などというが、それは禅によってもたらされたのでもなければ、漢詩によってもたらされたのでもない。まるで階段を登るように書き続けられた小説によってもたらされたのだ。それは、自分が母に愛されなかった子という主題にどのように取り憑かれ、どのように苦しめられ、どのように自由になったのかを、克明に記述していく過程にほかならなかった。階段を登るというのは、一作ごとに前作を明確に評価し位置づけながら書いているということです。

 見事な分析であり論証だ。先に読んだ三浦の『出生の秘密』といい、本書といい、三浦雅士ただ者とは思えない。ほかの著作も読んでみよう。


漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)

漱石―母に愛されなかった子 (岩波新書)