インセストタブーは人工の制度か

 6年ほど前にインセストタブーについて書いたことがあった。インセストタブーとは、Yahoo百科辞典によれば、

インセスト・タブー incest taboo
ある範疇(はんちゅう)の親族との性関係や結婚を禁ずる規則をいう。あらゆる人間社会においてみられる。基本家族の成員(両親を除く)の間での性交はほとんど普遍的にインセスト(近親相姦)であるとみなされている。

 つまり近親相姦に対する禁忌を意味する。以前書いたことを再録する。
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 ピグミーチンパンジーとも呼ばれるボノボはとても淫乱だという。ヨーロッパ社会へ初めてチンパンジーが紹介されたとき、動物学者に反対してヨーロッパ人はチンパンジーとヒトを同属に分類するのを拒否した。それはチンパンジーが当時考えられないくらい淫乱な動物に見えたからだという。ところがボノボと比較するとそのチンパンジーが高潔にに見える。それほどボノボは日常的に交尾を繰り返す。挨拶代わりに交尾し、喧嘩をしては仲直りに交尾をする。雌同士でも普通に性器をこすり合わせる。
 そんなボノボの中でも研究者たちがニンフォマニアとあだ名をつけた雌がいた。どんな雄の求愛も拒否しなかった。ただ1頭「弟」を除いて。ボノボインセストタブー。
 人間も普通インセストタブーは犯さない。親子や兄弟で交わることはない。それを制度として説明することが多い。制度は人工だ、人が作ったものだ。
 インセストタブーが生じる理由を、一緒に育つことによるという意見がある。一緒に育つと男女・雌雄の関係が生じないのだという。この方が説得力があるのではないか。
 先のボノボニンフォマニアの弟の例はそれに反するが、とかく雄・男は極端にスケベな個体がいるし、姉の方はきちんと拒絶している。平安時代の貴族たちや天皇家には異母兄妹間や叔父姪間での婚姻があったが、これは一緒に育っていないせいではないか。
 インセストタブーは人工の制度ではなく、ある種の本能と考えた方が良いように思われる。
 さて、では婚姻の構造(交差従兄弟婚など)はどうなるのか。意識的に作った制度ではないから構造と呼ばれる。
インセストタブー再び(2007年1月15日)
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 上記の3か月後にももう一度書いている。河合雅雄「子どもと自然」(岩波新書)より。

 (前略)レヴィ・ストロースは「動物にはインセストを禁止する何の規則もなく、ここにおいてのみ、自然から文化、動物から人間生活への転換が見られる」といっている。つまり、動物と人間を峻別し、人間優位の立場が貫かれているのである。
 しかし、ニホンザルの個体識別に基づく長期観察により、ニホンザルの群れではインセストがほとんどないことがわかった。最も精密な観察を行った高畑由紀夫さんによると、嵐山の群れでの2051回の交尾観察例のうち、交尾回数は一親等でゼロ、二親等で2組5例、三親等で4組7例である。一親等といっても父親は不明であるから、母ー息子間であるが、これがゼロであるというのはすごいことだ。つまり、ニホンザル社会では三親等までインセストは回避されている、ということなのだ。
 この事実は欧米の研究者を驚かせたが、野生のチンパンジーでも同じ現象が確かめられた。チンパンジーは乱婚的である。雌が発情すると雄たちが周囲に集まり興奮の渦の中でつぎつぎに交尾が行われる。だが、フローという名の雌をとりまく性の饗宴に、2頭の息子は全く参加しなかったとJ. グドールは報告している。フローの娘のフィフィはグドールが性的淫乱症(ニンフォマニア)と称しているほど性的にアクティブだが、きょうだいとの性交渉だけは嫌って寄せつけなかった。また、ピグミーチンパンジーは性的動物といってよい特異な性活動をする類人猿で、雄は1歳半になると雌と交尾する。おとなの雌もそれを手伝い、加納隆至さんの表現によれば性教育をするという。しかし、母親と性的な関係をもつことは決してなく、ここでもインセストは完全に回避されている。
 なぜインセストが回避されているのか。この理由については高畑さんの仮説が説得的である。それは「雌雄間の親和性と性行動は拮抗的である」という仮説である。平たくいうと、雄と雌があまりに仲よくなりすぎると、両者の性衝動が抑制されるということなのだ。母と息子は生まれた時からずっと一緒で、最も親密な間柄である。また、きょうだい間も同じことだ。だから、その間には性衝動が抑制され、性関係が発生しない、ということになるのである。奇妙な説のように思えるが、家庭内での兄妹・姉弟の間には性衝動が起こらないことは、体験的にも理解できるだろう。また、イスラエルキブツのように、赤の他人どうしでも幼児から一緒に育てられたグループのメンバーの間では、青年期に達してから決して結婚が起こらないことも、この仮説を裏づけている。
河合雅雄が語るインセストタブー(2007年3月16日)

 1月に「インセストタブー再び」と題したのは、以前岡本太郎に関してちょっとだけそのことに触れたことがあったから。
インセスト・タブー(2006年8月17日)
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 最近またここにつけ加える考察が見つかった。鹿島茂『セーラー服とエッフェル塔』(文藝春秋)に「他人のくそ」というえげつない題名のエッセイがある。
 鹿島は、鈴木隆『臭いの身体−−体臭と無臭志向』(八坂書房)を引用して、乳幼児は母親の乳房の匂いを覚えて、それを自分の匂いと同一視するという。そこへ母親と違う匂いを持つ父親が入ってくると、この匂いを嫌うようになる。ところが、ある時期から女の子は父親の匂いを好ましく思うようになる。しかし、この関係がそのまま大人になっても続くと近親相姦へと発展してしまうから、どこかで抑圧が働く。それは嗅覚への抑圧だという。鹿島はここまでの展開をまとめて最後にこう書く。

 なるほど、これはなかなか説得力のある理論だ。動物のセックスと人間のセックスで一番ちがう点は、嗅覚の役割と近親相姦であるから、その二つに関連があることは素人目にも確かなように思われる。人間が嗅覚によるセックスから視覚を媒介としたセックスに移行したとき、近親相姦の回避が起こり、次に近親相姦が回避されるようになると、今度は、さらなる嗅覚の抑圧が始まったのだ。

 以上の諸説を考察しての私の考えはつぎのようになる。ボノボニホンザルの例からも、インセストの回避は人間に特有のことではない。母子、兄弟姉妹がインセストを回避するのは、幼いときから一緒に暮らしたからだという説が説得力を持つ。なぜ一緒に暮らすとインセクトを回避するのか。鹿島のエッセイは、それが匂いに由来することを示唆しているのではないか。だから兄弟姉妹でも、幼い頃離れ離れになって一緒に育たなかった場合には、お互いに恋愛感情が生まれることがあるのではないか。


子どもと自然 (岩波新書)

子どもと自然 (岩波新書)