永田和宏『近代秀歌』を読んで

 永田和宏『近代秀歌』(岩波新書)を読む。とても楽しい読書だった。「はじめに」より、

 本書で私は、近代以降に作られた歌のなかから、100首を選んで解説と鑑賞をつけるという作業を行った。(中略)100首の選びは、できるだけ私の個人的な好悪を持ちこまず、誰もが知っているような、あるいは誰にも知っていて欲しいと思う100首を選ぶよう心がけた。(中略)
 あらかじめ断っておけば、ここに選ばれた100首は、近代のもっともすぐれた100首という選びとは微妙に異なる。ベスト100なら、選ぶそれぞれの人によって100通りの選びがなされるべきである。また、近代の歌は、これだけを知っておけばそれで十分なのかと言われれば、それも違うと思う。ベスト100や、十分条件としての100ではなく、必要条件としての100というつもりである。
 挑戦的な言い方をすれば、あなたが日本人なら、せめてこれくらいの歌は知っておいて欲しいというぎりぎりの100首であると思いたい。

 さて、本文を見ると、

 君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ   北原白秋


 一夜をともにした君を見送るときの思いであり、感覚である。見送るため外に出ると、朝の舗道には一面に雪が降り敷いていた。まだ誰も通っていない敷石に、あなたの足跡だけがくっきりと黒く残ってゆく。あなたを包むように降る雪よ、降るなら、林檎の香りのように降っておくれ、と詠うのである。

 ここに詠われた君とは人妻なのだった。

 老ふたり互に空気となり合ひて有るには忘れ無きを思はず  窪田空穂


 老いた夫婦が二人、今ではお互いが空気のような存在になっている。一緒にいると、いることを忘れ、かと言って、そこにいないということなどは、もとより思うことさえない、というのである。(中略)
 「有るには忘れ無きを思はず」というフレーズが、どこかアフォリズム(警句)風で魅力的である。ともに歳月を重ねてきた夫婦にだけ実感される、互いの意識の仕方なのだろう。晩年までをこんな夫婦でいられることの幸せを思うのである。

 「晩年までをこんな夫婦でいられることの幸せを思う」と書いている。永田和宏は2010年に歌人の妻河野裕子を亡くしているのだ。永田の悲痛を思う。

 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ  若山牧水


 生涯に残した7000首あまりの歌のうち、酒を詠んだものが200首はあるという。単なる歌の多さだけではなく、実際に牧水はこよなく酒を愛した歌人であった。1日1升は飲んでいたというから半端ではない。(中略)
 同居していた門弟の大悟法利雄は、その酒について次のように証言する。
 「大正14年、千本松原に家を新築した頃には、酒にもおのずからに定量ができていた。朝2合、昼2合、夜6合、1日1升というのがその定量と言ってよかった。しかしそれは「定量」というよりも「最低量」といった方が正しいくらいで、毎日それが守られていたのではなく、きょうは思いの他仕事が捗ったからとか、どうもちょっと気分が晴々とせぬからとかいうように、種々なことが理由となって、もう1本、もう1本という風に追加が出される。」

 長男によると、「このころの牧水は一度に3升を飲む男になっていた」という。
 これら100首のうち、私が知っているのは約1/3に過ぎなかった。
 「あとがき」によれば、続編が予定されているとのこと。

 本書『近代秀歌』は、岩波新書における3度目の「秀歌」シリーズとなる。『近代秀歌』は、藤原定家に同名の書があるが、ここはあえて使わせていただくこととした。なぜなら、このあとにもう1冊『現代秀歌』を書く予定だからである。

 永田和宏の『現代秀歌』が出るとは何と楽しみなことか!


近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)