小磯良平と山口長男

亡くなる間際まで山口長男と付き合っていたという画商さんの話を聞いた。生前の山口は愚痴ばっかりだった。絵が売れない。俺は髪結いの亭主だ(奥さんは美容師だった)。


山口は芸大で小磯良平荻須高徳猪熊弦一郎らと同期だった。フランスで山口は小磯と荻須とスケッチ旅行に出かけたことがある。小磯と荻須がスケッチする側で山口は何も描かなかった。描く気分ではないと答えたが、二人のデッサンは見事で、とても山口は並んで描く気になれなかったという。
2004年、東京都現代美術館で並べて展示された山口と小磯の芸大卒業時の自画像を見たが、うまさの違いは歴然だった。こんなにうまい同級生がいたら、山口が描きにくかったのも無理はない。


小磯は在学中に帝展で特選をとり画壇に認められる。2004年世田谷美術館で行われた小磯良平回顧展を見た。若い時からすでに完成の域に達していて小磯の婦人像はすばらしい。肌や着物の質感、立体感、遠近法、すべてが完成されていて、高い評価がなるほどと納得させられた。
だが、そこから先にうまく展開しない。群像や大きな室内の空間を描くことに挑戦する。戦後はマチスの影響も受けている。いずれも成功しない。一方画壇や市場の人気は高まるばかりだ。
小磯には分かっていたと思う。自分が婦人像のうまい画家にすぎないことが。辛かったに違いない。


山口は模索する。風景画の山の稜線に太い茶色の輪郭を重ねたりしている。それは成功していない。そして、ようやく茶色の面の抽象に至った時、山口の抽象は高いところまで達した。戦後日本でもっとも高いところに。 しかし市場は山口でなく、小磯を好んだ。山口は悔しかっただろうが、小磯はもっと辛かったに違いない。


小磯は頼まれて武田薬品の雑誌の表紙に薬草のシリーズを描いていた。シャクナゲの絵の複製を見たがみずみずしい線で見事なドローイングだった。これなら欲しいと思った。