成り上がり者の好きな前衛芸術

 昨日紹介した「商品」を作り続ける作家たちに関連して、10年ほど前に紹介した辻井喬上野千鶴子「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)の一部を再録する。辻井喬は西部デパート・セゾングループ創立者堤清二の文学作品を発表するときのペンネーム。

 

 辻井が始めた西武美術館(のちのセゾン美術館)の開館記念展は、抽象芸術、立体造形、コンセプチュアル・アート、スーパー・リアリズムなどの作家たちの作品を概観するものだったと紹介される。

 

上野  ピエール・ブルデュー(1930-2002年)の『ディスタンクシオン−社会的判断力批判』(藤原書店・1990年)はお読みになりましたか? 彼はそのなかで、「前衛芸術はどのような人によって選好されるか」という問いを立てています。前衛芸術は評価の定まらないものです。評価が定まったものではなくて、定まらないものに対して価値を見出すのは成り上がりの新興ブルジョワジーであると、明確に書いています。それはなぜかというと、「前衛芸術とは旧ブルジョワジーに対する自己差別化の記号だからだ」と。西武文化活動を見ると、あまりにブルデュー理論が当てはまるので感心します。

(中略)

上野  まだ価値の定まらない人材や作品に対して、先行的に才能を見出して投資していくやり方は、ベンチャービジネスそのものですね。

(中略)

上野  ベンチャービジネスのなかには当たりもハズレもあって、現代美術ははずれるとただのガラクタですね。

辻井  そうです。その判断は難しい。途中までよくても、「あっ、この作家、ダメになった」と感じることはありましたね。途中で創作方向がわからなくなって、くだらんものを創り出したりすることはよくあります。現代美術の作家の場合、半分ぐらいそうです。

上野  具体的に名前を挙げてもらってもいいですか?

辻井  強いて挙げれば、フランク・ステラとかオルデンバーグ。途中までとてもよかった。しかし、どこかでわからなくなってしまった。だったら、そこで創作活動をやめてくれればいいんですが、なおも続ける。

 

 その尻馬に乗って私も、フランク・ステラもデュビュッフェもサム・フランシスも後半駄目になったと書いている。