吉行淳之介『私の東京物語』を読む

 吉行淳之介『私の東京物語』(文春文庫)を読む。編集が山本容朗となっている。単行本の出版が1993年だから吉行が亡くなる1年前だ。すると吉行の監修というか了承を得ているのだろう。

 東京を舞台にした短篇小説とやはり東京を舞台にしたエッセイを集めている。

 「昭和20年の銀座」というエッセイがある。

 

 戦前の銀座の大通りには、その中央に市街電車のレールがあって、当然電車が走っていた。両側の歩道には柳が植えられていて、露店が並んでいた。

 いまの銀座は、大通りの歩道を早足で歩いてゆくことができる。当時はそんなことはできず、前の人の背中がすぐ目の前にあって、ゆっくり動いていく状態だった。とくに西側(小松ストア側)の雑踏ははげしく、東側はいくぶん余裕があった。つまり銀座のメインは西に在ったことになる。

  

 「銀座のメインは西にあった」のだ。だから人通りが比較的少ない東側に三越松屋松坂屋などのデパートができたのか。広い土地の入手が可能だったのだろう。

 「新宿・先端の街」には昭和初年ころから戦後の新宿が紹介されている。

 

 中村屋のカレーライス(ふつうの店の10倍くらいの値段)も先端、高野のフルーツパーラーというのはそのひびきからして先端、赤い風車のついた劇場「ムーラン・ルージュ」でヴァラエティショウを観て、紀伊国屋書店で本を眺めたりすれば、もう堂々たる都会人であったわけだ。

 この先端は、戦後も続く。焼け野原にまず尾津組マーケットができたのが新宿で、やがてハモニカ横丁などカストリ焼酎を飲ませる屋台ができて、そこには議論とエネルギーが充満した。(中略)

 ところで私は若いころから議論が嫌いだから、駅前のおでん屋「五十鈴」の地下のバー「和」とか、区役所通りの「とと」とか、どこかおっとりしたところのある場所に毎夜出没し(その前には、二丁目の赤線に)ていたが、赤線もそれらの店もみんななくなってしまった。その三つがまだ在る頃、昭和30年前後には、新宿コマのあたりで何度も路上殺人が起り、あのあたりはこわい、という声が高かったが、毎夜徘徊している身としてはなんの危険も感じなかった。街に馴染むと、そういう気分になるものらしい。

 

  それで思い出した。私も50年くらい前はしばしば新宿の歌舞伎町に行っていた。ある夜区役所通りを歩いていると、前方に男女が話しており、男が離れたあと近づくと女が声をかけてきた。すると男は美人局なのだろう。そんなことは何度かあったが、怖いと思ったことはなかった。それは私がお金を持っていなかったからだ。取られるものがなければ怖いものはない。

 巻末に編者解説として、山本容朗の「吉行さんの東京地図」という40ページもの長いエッセイが付されている。吉行は岡山生まれだが、2歳のときに東京へ移住し、昭和5年(1930)4月に番長小学校に入学した。

 

 今で言うと、JR市ヶ谷駅前から日本テレビへ行く坂道の途中にある家に定住したのが小学校へ入る1年前の春で、それから、戦災で家を失うまでと、戦後も同地に家を建て、芥川賞をもらった後も、ここで作家活動を続けていた。(……)/あの坂の名は新坂。

(中略)

 吉行さんの、「崖下の家」は市ヶ谷の坂のある家と祖母とがからむ小説だが、「家屋について」は住んだ家を思い出しながら綴っていくスタイルの作品で、この作家を知りたいと願う読者とっては2作とも見落とせない。

(中略)

 市ヶ谷駅から日本テレビの方角へ昇っていく。右側に横浜銀行の入った高層ビルがある。そこが「崖下の家」の跡地だと確認できたのは昨年のことだ。

 

  そうか、横浜銀行のところだったのか。昔仕事で何度も日本テレビへ行っていた。途中横浜銀行があるのは知っていたが、吉行の住居跡だとは知らなかった。今度訪ねて行ってみよう。それにしても山本容朗のエッセイの構成はいただけなかった。

 

 

私の東京物語 (文春文庫)

私の東京物語 (文春文庫)