牛の戀静まるまでを枯野かな
テーマ:昊山人俳句匣
◆昊山人俳句匣◆
掲出句は、もう三十年近くも前の或る日の偶成である。
場所は中央区の某画廊だった。当時そこが老朽化したビルの狭い二階から何百メートルか先のゆったりした一階のスペースに移転して、画廊主の「これで床を踏み抜く心配も無くなりました呵々」との挨拶葉書を貰って間も無い頃だと思う。私はと言えば、その時代は月に幾日も徹宵が続く多忙の上に、俄か観劇熱に駆られて少しの暇を見つけては小劇場の暗闇で靴袋抱えて体育坐りしていた明け暮れだったから、その画廊にもやや御無沙汰だったかも知れない。
展示は私の知らない画家の油彩で、遺作展と称されながらその物故より十年余を閲してのものだった。地方で不遇の内に早逝した作家の未完の業績に今まさに光が当たろうとする現場に、偶々その時行き合わせたのである。画廊主と夫人を中心に、高名な批評家のS.Sを交え、いくたりかの来客、絵描きの関係者等の談論風発の熱気がそこにあった。
中央では無名に等しい故人の仕事がこうした死後の個展として実を結ぶに当たっては、やはり批評家のH.Iの尽力が大きかったと聞いた。画家は郷里では堅実で達者な写実派として一時は将来を嘱望されながら、その破滅的な生活態度に加え、急進的に変貌して行く作風への全くの無理解から、晩年は地方画壇での爪弾きに近い状態だったという。その無理解にさらされた画家人生後期の仕事が、戦後美術の一角に指導的位置を占めていたH.Iと、秀れた美術鑑識眼で一家を成す画廊主の注目するところとなったのである。
会場で熱ある会話が弾むうち、奥に立った画廊主が抱えて来た一枚のタブローがあった。画家のアトリエには大量の遺作が残されていて、遺作展は今後第二回、三回と続ける予定という。運ばれて来たのは次回以降の目玉とするべき作らしく、そうした一連になると作家の筆はより不覊奔放に走って、〈写実的〉見地からすれば全くのエスキースかただの下塗りに過ぎない外見のものも目立つとのこと。しかしそれらの画布の多くに物故の人は自信の証でもある署名を確かに入れていた。特別先行公開となったその作を、一座は感嘆の溜息をもって迎えた。
枯色の野を描いた風景画であることは間違い無い。だが全景は霧のような非形象に溶け込んでいる。そのあわいに幾つかの影のような形が浮かぶ。靉靆とした空気感の中に、しかし或る一本の、確かな造形的品格を貫通させた一枚だった。モチーフは牛の種付け場だ、と絵描きの関係者の方から説明があった。するとこの影は交尾している牛かな、と声があがったが、流石に現代の種付けでは牛を直接交わらせることはしないという。とは言え、種付け場と知って見ると、そこに充溢する生命の息吹を誰しも思わずにいられなかった。ずっと遠い昔には実際に牛を番わせることもあったには違い無く、画家の筆はその場に残るそうした歴史まで捉えようとしたのではないか、と。
遺作展実現を讃えて、またその一抹の寂しさも嘆じながら、S.Sが一句を紙に草していた。驥尾に付してその時私が詠じたのが掲出の一句である。俳人でもある画廊主から随分と褒められたのが印象に残っている。
その画廊主も今は泉下の人となった。
※画家山本弘の遺作紹介は今も続いている。今秋も都内での展覧会が予定されていることを付記しておく。
ここで話題になっている牛の種付けの絵は山本弘の「種畜場」だろう。
このティーグル・モリオンさんのブログのアドレスを貼っておく。
https://ameblo.jp/taphnichina/entry-12014671443.html