山本弘の作品「流木」

 7月15日から銀座のギャラリー403で山本弘展を開催する予定。その主軸となる作品「流木」について、以前紹介したものを再録する。

山本弘「流木」油彩、F20号(72.7cm x 60.6cm)
 これは何という作品か。すごい赤だ。いつもながら単純なフォルムが強い。サインも作品の一部になっている。「流木」と題されているが、何が流木なのだろう。中央の白い形がそれなのか。赤い色面は泥を含んだ洪水の急流を思わせる。昭和36年6月に長野県南部の飯田地方を集中豪雨が襲った。「36.6災害」と名付けられている。あちこちで山が崩れ、家が潰されて大勢の人が亡くなった。山本の住む上郷町飯田市の境界を流れる小さな川、天竜川の支流のさらに支流である野底川が氾濫したのは実にこの時だ。上流から大きな岩を転がし堤防を崩し田畑を泥で埋めた。家も倒壊した。繰り返し描くその体験のこれもその一つなのか。
 山本は具象から始まって、1970年、40歳以降抽象に移っていった。しかし完全な抽象に変わったのではなく、軸足を具象に置いた、抽象と具象のあわいで仕事をしていた。しかしこの作品はほとんど抽象ではないのか。美術評論家針生一郎さんは、山本弘について次のように「極限まで凝縮されたイメージがあらわれる瞬間をとらえようとしている」と書かれた。

 初期の暗鬱な色調をもつ写実的な画風から、しだいに形態の単純化と色彩の対照による内面の表出へと転換する。とりわけ注目されるのは、生活が荒廃しても、体力が衰えても、絵画の質の高さは失われないことである。晩年はむしろ非具象ともいえる奔放な筆触と色塊のせめぎあいのうちに、極限まで凝縮されたイメージがあらわれる瞬間をとらえようとしている。(読売新聞、1994年7月28日夕刊)

 以前から、なぜこの絵が「流木」と題されているのか不思議だった。葉書を見た山本さんの娘の湘ちゃんからメールをもらって、その謎が分かった気がした。湘ちゃんのメール、

 あの葉書の絵には父との思い出がありはっきりと覚えています。
 父はいつも作品ができあがると、必ず私をよんで乾かぬ絵を真っ先にみせて私に感想をきいていました。私はこの流木の絵とあと2点の感想をきかれ、またいつもながらにこどもらしからぬ感想を言っていました。流木の絵を指さし、私はこの絵は好き、赤がとてもきれい、血がながれているみたい…。父は今までにないほど満面の笑みを浮かべて、心から嬉しそうでした。何故それほど(?) 今でもわかりませんが、歯の抜けた父の笑顔が今でもやきついています。

 もっと詳しく聞きたいとメールすると、

 絵の感想は毎回きかれていましたが、たいがい何も言わずに嬉しそうにきいていましたが、あの流木のときは何故かことさら喜んでいました。そうか…とつぶやいていたようなきがします。私が記憶に強く残ったわけは、父の笑顔でした。本当に嬉しそうで、それが焼き付いて、あの絵をみたとき瞬間的にそのことがよみがえってきました。

 この作品は1978年の生前最後の個展に出品されたものなので、その時湘ちゃんは7歳だったはずだ。小さかった時のことをこんなに鮮明に憶えている! 湘ちゃんの感想「赤がとてもきれい、血がながれているみたい…」それに対して「父は今までにないほど満面の笑みを浮かべて、心から嬉しそうでした」という。すると血が流れているみたいというのは間違ってはいないのだろう。
 流木は普通、台風などによる洪水が引き起こす濁流に流される木だ。この絵では赤の中に白い形が見える。濁流は本来茶色〜茶褐色をしている。それがここでは赤く描かれている。これは血の濁流の中を流されている流木なのだ。白い形が流木で、それは画家山本弘に間違いないだろう。自分を血の濁流に流されている流木と捉えているのだ。この流木は骸骨にも思える。終生、酒浸りで深いアル中に苦しみ、生前誰からも認められることのなかった山本の生活を思えば「血のような苛酷な世界」は少しも誇張ではない。