『色彩持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』とモーリス・ルイス


 村上春樹の『色彩持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の表紙カバーにモーリス・ルイスの作品が使われている。それは村上が選んだのだろうという人がいたが、あれを選んだのはブックデザイナーなのではないか。村上春樹は落田洋子のコレクターだという。事実、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も『マイ・ロスト・シティ』も表紙に落田洋子の絵が使われている。落田洋子とモーリス・ルイスでは傾向があまりにも違いすぎる。いや、落田洋子を選ぶ感性からは逆立ちしてもモーリス・ルイスは出てこないだろう。下に掲載したのがモーリス・ルイスの作品。

 モーリス・ルイスは戦後アメリカの抽象表現主義の作家だ。大きなキャンバスに絵具を流し染み込ませた作品を作った。そんなことをした作家はいなかったので、独創性を何よりも重んじるアメリカの美術界で高く評価され、欧米や日本の美術館に収蔵されている。私も東京国立近代美術館東京都現代美術館川村記念美術館の常設で何点か見てきた。
 日本ではそれに強く影響された丸山直文が同じ手法の抽象作品を発表していたが、丸山は20年ほど前に作風を転換し、同じ手法で現在は具象的な作品を描いている。
 モーリス・ルイスについては、まだ個展みたいな形のたくさんの作品を見る機会がないので断定的なことを言えないが、あまり積極的な評価はできないと思っている。モーリス・ルイスについて、宇佐美圭司が書いている。まず「ポロックの絵画がヨーロッパの美的範疇を「強さ」によって超えたのである」と言い、シュール・レアリズムと抽象絵画に到るさまざまな試みの全体を超えるのに、ポロックの始めた「大きさ」と「強度」が必要であったと説く。

 もう一人のニューヨーク派の代表的作家モーリス・ルイスの色をしみこませた大画面の作品も大変なものだ。一度日本に来た3m角くらいのその布を木枠に張るのを手助けしたことがあったが、それがボロボロになるときはどうするのであろうか、と私は危惧した。
(中略)
 彼はキャンバスという支持体に作品を描くのではなく、布を色材によって染めてしまう。つまり色づけされた布そのものが作品であるというわけだ。
 絵画が何かの表象であることから物質そのものへ移行する。そんな風に表現の超越が語られる。それゆえ従来の絵画のように目止めされた布の上に顔料層がのるのではなく、布の繊維の内にアクリル絵の具をびっしりしみこませて作品を成立させている。「強さ」と「大きさ」がここでもそれを価値づける中心概念であり、色のしみこんだ布という物質は当然、鉄が放置すれば錆びるように、自然に変質し、やがてはボロボロになれば良いということであろう。
 絵画がパフォーミング・アートのような一過性を持つに到ったといえばそれまでだが、次の世代へ伝承しえない技術レベルが、はたしてアートの名に値するであろうか。
 20世紀後半アメリカから吹いた「サブライム」や「強さ」を主張する美学が、100年後の美術館に、20世紀文明のゴミのようなアートの山をつくっていない保証はない。

 宇佐美圭司が「ゴミのようなアート」と言っている。(『20世紀美術』(岩波新書)より)


 モーリス・ルイスの画像については、次のページを、
http://matome.naver.jp/odai/2136578232021289901
 モーリス・ルイスについては、川村記念美術館の解説が詳しい。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/200809_morisLouis.html
 目黒区美術館の丸山直文展については、こちらに書いた。
目黒区美術館の丸山直文展(2008年10月11日)


20世紀美術 (岩波新書)

20世紀美術 (岩波新書)