田淵安一亡くなる

 朝日新聞の逝去記事から(11月25日夕刊)

 田淵安一さん(たぶち・やすかず=画家)24日、心不全のためパリ郊外の自宅で死去、88歳。通夜、葬儀は未定。
 北九州市出身、東洋的な感性による色彩鮮やかな抽象画で知られた。猪熊弦一郎の研究所で油彩画を学び、51年に渡欧。パリを拠点に活動、故岡本太郎らと親交を結んだ。カーネギー国際現代絵画彫刻展などに出品するなど、国際的に活躍した。著書に「西欧人の原像」など。

 田淵安一はフランスで活躍していたため、日本での知名度は小さい。しかし優れた画家であることは間違いない。1996年に鎌倉県立近代美術館で個展が開かれているし、2006年にも鎌倉県立近代美術館葉山館で再度個展が開かれている。華やかで乾いた色彩の作品を作っていた。そうか、これが日本のように湿度が高くない乾燥したヨーロッパの色なのか。
 三岸節子野見山暁治も日本に帰ったとき、こんな湿度の高い国でどんな色を使って絵を描いたらいいのかと悩んでいた。二人とも日本でしっとりした色彩を掴んだが、フランスにいたら田淵安一のような乾いた華やかな絵を描いていたのかもしれない。
 田淵の実家は銀座1丁目で青果物の店を開いていたという。取引先の銀行へお父さんが来て、息子が絵描きなんかになってしまったと愚痴っていたそうだ。その実家は現在1階が画材店、3階がなびす画廊だ。田淵がナビ派が好きなのでこの名前を付けたと聞いた。
 田淵安一はパリで野見山暁治と親しかった。野見山の「続アトリエ日記」(清流出版)に田淵のことが書かれている。2008年3月21日の日記から。

 小ぢんまりとしたモダンな建物の一角に田淵は居た。50年以上前の、自転車で旅をした折のスナップ2葉を手土産にする。
 これはリヨンの河っぷちだ。田淵は嬉しそうに眺める。もう1枚はどこかの原っぱ、これも二人向いあって昼飯を食っているところ。背後は池だろとぼくが言ったら、いいやそうじゃなくて一面の雑草だったと、確かな記憶だ。
 しばらく眺めていたが、それっきり遠くを見る目つきになり、もう写真は田淵の中から消えた。一昨年、葉山の美術館で待ち合わせて夕食を共にしたとき、あと1年くらいで駄目になる、と予告していたパーキンソン病
 動かない体を、椅子に坐らせられたきり、田淵はあらぬ話を嬉しそうに語る。あんなにも明晰で敏捷だった男が、予告通り、もうみんなの前から遠く離れていったんだ。

 野見山のこれらの言葉は痛切で悲哀がこもっている。年を取ると友だちが次々と亡くなっていくのだ。