岡井隆「私の戦後短歌史」(角川書店)がとても面白い。小高賢が聞き手になった聞き書きなので読みやすいし、岡井は率直に語っている。タイトルどおり戦後短歌史がよく分かる。
岡井 近藤(芳美)さんはね、じつは「アララギ」の大きな異端だったのですよ。現実には朝日新聞の選者でしたし、長らく現代歌人協会の理事長であられたので、「アララギ」でもつねに中央にいたというふうにほとんどの人が思っているが、そうじゃない。「アララギ」には、斎藤茂吉と土屋文明の流れがあります。近藤さんは文明の弟子には違いないのだが、少し別のところからきています。はじめは中村憲吉の弟子ですからね。杉浦明平が、はっきり言っていることでね。近藤は別なところからきた人だと。我々とは気風からなにからまるで違うというのです。あれほど柔で、下手な歌で、「アララギ」の後を継ぎ、中心になってやってくれるのかどうか、明平さんには危ぶまれていたのです。ところが戦後若い人からすごい人気がありました。特に『早春歌』。(中略)しかし、「アララギ」のなかでは必ずしも評判はよくなかった。僕の家は斎藤茂吉の門下生がよく集まっていました。ですからよくわかるのですが、呼び捨てでしたね。あんな近藤や明平(杉浦)がいるから「アララギ」はだめになるとか、言われていました。あれで近藤さんが東大出身だとね、もう少しすんなり行ったと思うのだけれど、東京工大でしょう。
小高 そういう問題もあるのですか?
岡井 アイロニーとして申し上げるのだが、「アララギ」は東大じゃなきゃだめなのです。
小高 近藤さんに本当に親しい友だちなんていたのでしょうか。
岡井 いたのでしょうね。個人的には。
小高 奥様といつも一緒という感じがどこかありますよね(笑)。
岡井 まあ、奥様が一番、仲の良い友だちでもあるということでしょうね。でも我々の知らないところで、いろいろご相談なさる方はいらっしゃったのではないですか。日記は付けない、手紙もほとんど書かないのですね。そして個人的なことは、『青春の譜』『歌い来し方』というような著書にあるように、ほんとに表面的なことしか書かない。ぐじゃぐじゃな俗な部分は絶対書かない。あんなきれいごとで人生が済むわけがないじゃないですか(笑)。
岸上大作が自殺して、遺歌集『遺志表示』を出すという時、遺書も載せたいと言われ、岸上の自殺の原因となった失恋相手の女性の承諾を得なければいけないということになって、岡井が交渉に行った。
岡井 彼女に会った印象では、岸上は振られるだろうと思いましたね。
塚本邦雄との関係も語られる。
小高 (前略)ここ(『マニエリスムの旅』)には岡井さんの意気込みというか、今までの短歌でないことをしようという意識がとてもあるような気がするのです。例えば『マニエリスムの旅』では塚本邦雄さんの長い解説がありますね。
岡井 あれはかなり意地の悪い解説です。あの頃、彼は気がついてきたのですね。「こいつはちょっと、放っておくとやっつけられるかもしれない」と。今までは同志、あるいは自分が引っ張り上げてきている男だというふうに思っていた。
小高 つまり自分が長じている、先に行っているという感じですか。
岡井 そう、そう。ところが、あれを見て、「かなりわがままをやっている。自分とは違う線でいこうとしている。しかし、わりと味なことをやっているところをみると、ひょっとすると自分はこれで追い抜かれる可能性もある」という感じがしたものだから、ああいう意地の悪い解説になるのかと、そう思いました。
小高 岡井さんは「あとがき」でそれに一矢報いているところがありますね(笑)。
1992年岡井隆は歌会始の選者に就任し、多くの批判を浴びる。
岡井 今になって振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う、明らかに。しかし、それはゆっくりと転向してきたのだ。『鵞卵亭』を出したころぐらいから時間をかけて考えが変化してきたのでしょう。以前にも言ったように、その前から核兵器を持つべきだなんて島田修二君と話していたくらいだから、まあ、ナショナリストであり、ある面から言うと保守ファンダメンタリズムみたいなところになっていたのではないですかね。
特に面白いと思ったところを抜粋して紹介した。本当に面白い聞き書きだ。一読を勧めたい。
- 作者: 岡井隆小高賢
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