青柳いづみこが『図書』2月号から「響きあう芸術 パリのサロンの物語」という連載を始めた。その第1回が「サロンという登竜門」、若く無名でお金のない芸術家が世に出る手段は、21世紀ではショパン・コンクールやチャイコフスキー・コンクールだが、19世紀は貴族やブルジョワのサロンがその役割を果していた、と書く。
エリック・サティは上流階級のサロンとは縁がなく、貧しい生活を送っていた。サティを中央に引き出したのはラヴェルだった。ラヴェルはサティの個展を企画し、サティは若い作曲家ロラン=マニュエルに出会い、マニュエルは自宅でサティの喜劇『メデューサの罠』を私的に上演する。それを見に来た画家のヴァランティーヌ・グロスは、自宅のサロンでジャン・コクトーに引き合わせる。
モンパルナスのユイガンス音楽堂で「ラヴェルとサティの会」が開かれ、それを聴いたコクトーはロシア・バレエ団のために台本を書いた『バラード』の音楽をサティに依頼した。翌年シャトレ座での歴史的な上演が実現した。『バラード』は次世代の作曲家たち(オーリックとデュレ、オネゲル、プーランクら)を集結させるきっかけになった。
ヴァランティーヌ・グロスがいなければ『バラード』は生まれなかったし、『バラード』が生まれなければ、(フランス)6人組もまた生まれなかっただろう。
このような展開は、残念ながら集団合議制のコンクールでは望みにくい。(中略)
ときどき、音楽に民主主義は似合わないと思うことがある。誰か一人の審査員がすばらしいと思っても、他の審査員がよい点をつけなければ、勝ち抜くことはむずかしい。1980年のショパン・コンクールでは、ポゴレリチの予選敗退を不服としてアルゲリッチが審査員を辞退してしまった。
芸術に競争は似合わないと思うこともある。ショパンがショパン・コンクールに出場していたら、1次予選で落ちていたろうというのは、音楽学生たちがよく笑い話にする。ショパンのような才能を発掘するためには、コンクールはまったく向いていない。
そしてまた、ローマ大賞に5回失敗したラヴェルも、コンクール向きではなかった。
ましてや、サティにおいてをや、である。
私もVOCA展で大賞を受賞するのは寅さんだと書いたことがある。集団合議制ではゴダールやタルコフスキーが選ばれることはないだろう。皆が選ぶのは寅さんなのだ。いや、今年のVOCA展は見ていないので、別にあてこすっている訳ではない。
・VOCA賞の大賞に寅さんが選ばれるわけ
https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20070430/1177887660